つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

7月3日水曜日

子宮痛で目が覚める。昨日ドラッグストアでロキソニンを買う際に、店員さんが、「こっちのほうが安くてお得ですよ、中身は全く同じです!」と言って、ロキソプロフェンを勧めた。経済なのは知っていたが、飲み比べてみると、ロキソニンのほうが強く血圧が下がるものの痛みにもしっかり効くような気がした。それからは飲み分けていた。ふらつきたくない、あまり痛みを心配しすぎなくていい、ときにはロキソプロフェン。外出する心配なときにはロキソニン。店員さんが鍵を持つひとを呼びに行く間に、母が「全く同じじゃあこっちの会社はつぶれない?」と首をかしげる。「同じじゃない」とわたしはおもった。だが、目の前で「経済!」と言われたら、わがままは言えない。
寝付けなかった。夢では、覆面パトカーにつかまるが、わたしが気転の利いたことを言って、罪を免れる。母と喜ぶ。警察官も仲間のように表情を崩す。観察処分となる。その足で進んだトンネルの中が異様に渋滞をしている。曲がりくねり、重なる道路に、車がびっしりと連なる。「Uターン禁止」のアナウンスがある。わたしはパニックを起こして、母の脇腹に顔を隠して、呼吸を荒くする。見てはならない。道路と車を見てはならない。とても耐えられない。泣き出す。車はまったく進めなかった。

やや気が急く。が、「そうしなくてもよい」と思考がある。メモを見ても、見るが、それだけで、改善しようと電卓を叩くことはない。ここ数日、風邪を引いてからだろうか、満ち足りている。急いていない。頭もあまり困っていない。欲しくない、必要ない。ポーチも、傘も、物が必要ない。位置も考えてきたような上の方は必要ない。ここにいて、働いて、ほかの時間は有意義に過ごさなくていい。なにもしなくていい。なにも成し遂げなくていい。本も無理して読まなくてもいい。二三週間読まなくてもいい。なにか…やわらかいかんじの思考がある。どうでもよいとなげやりになっていない。自分を殺してやろうとたくらんでいない。なにでもよいというかんじがする。とのようでも…わたしはたぶんだいじょうぶだというか…答
えはないというか…たどり着ける場所はないというか…真面目にするとおもう。けれど一方で、できないだろうと優しく悟っている。本を読むことも、解離することも、新しいことを学ぶことも、たくましくならないし、かといって倒れるかといえば、なんとなく、できるのではないか。うまく言葉に表せない。
こんなふうに生きていける気がしたのだ。
働いて、眠って、家族ともすこし過ごして、頭はややぼんやりとしていて、たくましさなくて、かといって弱すぎもしないで、趣味はなくて、義務もなくて、真面目にするけれど、ぼんやりともしている。意味はなくて、意義もなくて、小さなことをよろこぶとか、命に感謝するとか、宇宙とか、そういうことでもなくて、ぼんやり、生きていけるような気がした。手帳にもこだわらないで、ほぼ日手帳も買わない人生、読みたい本を買わないで図書館の本を読む人生、物を買わない人生、特別なことはしない人生、お気に入りのものを見つけたり持ったりしない人生…そういう人生の実感があって、それはやわらかくて、難しくなくて、意味もなくて、たぶん価値も見えにくい。わたしは中卒のままで…そういう人生。けれど狂っていな
くて、痛いところもなくて、頭が苦しくもなくて、なんとかやっていけて、ほっとする人生だった。

そして、働いた自分へのねぎらいに1800円のポーチを買ったりしない、とわかると、とても、ほっとした。
きちんと働くけれど、それだけなのだとおもう。