夜1度目が覚める。弟がとてもすてきなもなかを選び、店員さんが商品を詰める袋は小さくてお寿司が傾くけれど、わたしは、「すぐだからだいじょうぶです」と言う。弟とふたりでうれしい気持ち。早く、駐車場で待つ両親のところへ走って帰りたい。ひとつめの夢。
ふたつめの夢では、わたしが車のキーを持っていて、ボタンが4つあり、ロックをしたり解除をしたりして、しかし振り返るとドアが2つ開いたままになっている。別の場面があり、そこではわたしは席について、封筒を持っている。中に入っている札束を数える練習をする時だ。指導をするふたりのひとがいる。そこは店内の1角で、さまざまなひとびとが出入りする。もう会わなくなった友人の姿もあり、「無事に生きてたんだ、そうだよね、生きてるよね」とおもう。そのひとがほかのひとの名前を簡単に思い出す様子を見て、すこしうしろめたいような、憎いような気持ちになる。札束は持ったまま、まだ練習がはじまらない。だんだんと、札束はメモになっていく。指導者のひとりが書き連ねた古いメモの切れはし。
昨夜は歩いてみた。28分。しんどくはなかった。ただ、怖い気持ちが多い。
怖いながらも、「すてきな事務員さんになる」と考えてみる。なにかわかりやすいものがあると、いいかな、という気がする。わかりやすいものに沿って生きること。
「インスタ映え」という言葉を聞くたびに、胸がすく。他人を巻き込む承認欲求などおかまいなしに、自分の心を奮い立たせたり、満ち足りさせること。なんでもないことをよろこぶこと。ふつうのことを美しいとかんじること。日々を暮らすこと。なにのアプリも使わずにそうして大切に生きられるひともいる。アプリに支えられるひともいる。振り返る力が弱いものは、あらためて、日々を形にして、見て、自分の人生を肯定したり、投げ出さないように、しっかり、掴むことができるのかもしれない。自分だけの「インスタ映え」は、小さく生きるひとの、強い感性が、バランスをとる場所なのだろう。
わたしは、怖い。
なんでもないことが怖い。
なんでもないことをよろこべるようになりたい。勉強したとか、おいしい朝ごはんを食べたとか、空が晴れたとか。わたしにとっては怖いこと、怖くてたまらなくなること、とても抱えきれないことを…
「すてきな事務員さんになる」
網戸と窓のあいだに蟻がいる。
「鳩が奥さんをつれてきた」
「石鹸がどろどろになる。石鹸をどろどろにされる」
わたしはにどと直らない。
わたしはにどとふつうのひとにはなれない。ふつうのひとのようには生きられない。
わたしはわたしの奴隷。
母が朝起きてくれなくて、朝ごはんのパンがなくて、ごはんで、心臓がばくばくする。テレビではニュース。父が大声をあげている。まただれかが父の権利を侵害したのだろう、どこかのばかものが。こうなるのならば、お弁当は作れない、夜更かしすればいい、音楽さえ聞けばいい、そんなふうになにもかもがたがをはずしていく。
たがをはずすのはわたしだ。
「障害者は自分で署名できない」と父が13回言う。朝。
時間は1時間押した。投げ出そうとしている。
なぜわたしはなにひとつゆるされなかったのだろう。服くらい着ても、髪くらい伸ばしても、友だちくらいひとりいても、半日くらい出掛けても、勉強くらいしても、散歩くらい夜闇に紛れてこそこそしなくても、よかったじゃない、それくらい、ゆるされたって、よかったのではないか。
いや、ゆるされはしない。けしてゆるされはしない。
なぜならばおまえはうまれつきの欠陥で、生涯親の穀潰しだったからだ。恩知らずのあほう児だったからだ。
自分を殴り殺すこと。
自我を消すこと。
目を覚ましてはならない。
夢見てはならない。
地獄はここにはない。
わたしが地獄そのものだ。
腕に穴を開けてその穴から現実を覗きたい。
ファンデーションの存在をすっかり忘れている。
いまにも失神しそう、身体の感覚が失われていて、残った頭がとても冷たい、いまにも失神する、そこらじゅうに吐き散らして、前からも後ろからも漏らして、倒れて、死亡する、死亡はしなくても失神する、失神はしなくても脱力して、ホワイトアウト、身動きをとれなくなる、というときにも、走らねばならないのだろうか。そうなのかもしれない。
身体を動かす仕事をしていた時期は、いま振り返ってみると、体調が安定していた。精神もそこそこ落ち着いていて、字が読めなくなるまでは、本もよく読んでいた。苛々することもすくなかった。とはいえ、簡単ではなかった。なんど、「今日こそは無理だ、今日こそはいろいろなところから漏らすだろう、今日こそは、『ちょっと具合がわるくなってしまったので早退させてもらえないでしょうか』と言うしかなくなるか、言いにも行けずにそこらあたりでホワイトアウトして、前からも後ろからも…」、なんどそう考えただろう。身を固くして、できるだけ壊れないように始業を待ち、はじまれば腹を括り、しかしなかば解離して、「どうにでもなってしまえ、しらないよ…」、うつろな精神と過剰な注意とこわばりが同時にあるな
かで、歩いた。ほんとうに、なんど、そんな日があったことだろう。いまに吐いてしまう、いまに終りだ、こんどこそ終りだ、もうしらない…。1度も倒れなかったことは偶然だと考えていた。仕事が終ると…気分がよかった。もう家に帰れる、やりきった、倒れなかった、漏らしもしなかった、無事にやりすごせたんだ…
もしかすると、ああして身体を動かすことはよかったのかもしれない。精神が解離と緊張のあいだでどうにかバランスをとろうとしていたことは、ぎりぎりのことだったかもしれないが、もうすこしつづけていたら、ぎりぎりのことが、だんだんと、ぎりぎりではなくなっていったのだろうか。
失神しそうなときに走れるか。たぶん、走って、なんどか失神してみるくらいの覚悟でいいのかもしれない。
身を固くして、これ以上なにひとつ起こりませんように、そう祈ることしかできないでいた。
「そうだ、服をひとつ買ってみようかな」と思いついて、風が、ふいたようだった。そうだ、服をひとつ買うのだ、それはできるかもしれない。ひとつだけなら、できるかも。
似た身なりのひとを見かけた。
ひとつなら、できるかもしれない。ひとつなら、おかしくないかも。へんじゃないかも。ひとつだけ、服を買ってみる…
お店のホームページを見て、下見しておいて、それからお店に行って、ひとつだけ、買ってみる。
それからおかしくないかもしれない。それならできるかもしれない。
風がふきぬけていく。
すこし暑い。