つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

8月19日月曜日

昨夜は寝つけない。仰向けになって、まったく眠る様子がないことに気づく。深呼吸をして、指先から集中するが、集中はできない。怖くなる。朝から夜まで、昼休憩をはさんで働くこと、顔に泥をぬれないこと…。怖い。とても怖い。
夢を見る。石段のある山道を自転車で20人ほどと上っていく。自転車は電動で、それぞれちがう形と色、電動のついている場所も、前輪だったり、後輪だったりする。だれもが、すいすいと、石段を上る。先頭は眼鏡の書店員さんで、後ろの方には書店長もいる。頂上に着くと、みなが歓声をあげて、自転車を降りる。写真を取り合いはじめる。わたしはひとり、知り合いもない。みなが仲良く肩を寄せあい、写真を取り合う姿を見て、気後れがする。恥ずかしくて、隅の方で、斜めを向いている。書店員さんがとくによろこんで、はしゃいでいる。やがてひとりの女のひとが、たまたま近くにいたわたしに、「いっしょに撮りましょう」と声をかけてくれる。ほっとしつつ、緊張しつつ、彼女の隣に立つ。すると、彼女はとても大きい
ことに気づく。わたしよりも頭3つ分ほど大きい。彼女はわたしに合わせて、頭を傾けてくれるが、そうすると、彼女が側頭部でまとめている鳥の巣のような義毛のような塊が、わたしの顔を覆い隠してしまう。わたしは、かーっと、恥ずかしくなり、焦りながら、顔を傾けて、どうにか塊から顔をのぞかせる。パシャリ。
あっという間に、みな自転車にまたがり、山を降り始める。来た道を引き返すのだ。わたしは頂上の奥にトイレを見つけて、とっさに、「お手洗いに行ってもいいですか」と書店員さんに声をかける。書店員さんはやや面食らっているが、ゆるされて、トイレに入る。和式で、下げると水が流れる銀色の棒が、しゃがんだわたしの目の前にある。しずくがついている。結露だ。顔をあげると、書店員さんと目が合う。書店員さんはトイレの外に立っていて、わたしが出てくるのを企画者の責任として、一心に待っている。トイレの外にある鏡と、内にある鏡の作用でその姿が見えるのだ。ということはわたしの姿も向こうに見えている。恥ずかしくなって、視線を逸らし、あとはけして見なかった。
トイレから出る。みなはもう自転車で出発してしまっている。わたしと書店員さんが最後だ。トイレからつづく白い壁面に、赤と黒ツートンカラーの数珠に似た大きな虫を見つけて、わたしはおもわず、書店員さんに指を指して教える。すると、書店員さんも興奮して、「わあ、すごい」とか言う。ほんの短い時間のことだった。虫は、玉と玉の間で分かれて、先頭の4つほどの玉でできた部分が、後部から羽を出して、飛び始めた。うわあ。ふたりとも無邪気に驚くが、つかの間、その虫がわたしのすぐ近くで飛び散る。虫の毒針か毒羽か、なにかが、わたしの首筋に付着する。わたしは失神する。
目を覚ますと、頂上に仰向けになっている。店長も引き返してきている。わたしははじめ、仰向けのまま大泣きをするが、やがて落ち着く。「だいじょうぶです、歩けます」
石段の山道を降りていく。わたしはこれまで、店長とも書店員さんとも、こんなに近くにいたことはなかった。話したこともなかった。ショックにうつろになりながらも、そんなことをおもう。みなにも追いつく。右手に、電気のついていない小屋のようなコンビニが現れる。雨が降り始める。だれか女のひとが隣にきて、茶色の木でできて傘に入れてくれる。ふたりとも歩いているから、うまく傘の中に入れない。女のひとは、だれかに親切にしたかっただけで、そこにわたしがいたから、声をかけただけだった。
山を降りると、駐車場に出る。数台のバスがあり、そのそばには、バスと同じ長さのテーブルが並んでいる。ひとびとは続々と席に着く。振り替えると、ひとつしかないトイレに、山から降りたひとびとが、器用に、流れるように並んでいる。わたしは、もういちどトイレに行っておきたいが、勇気がない。テーブルの方に向かうが、そのとき、自分の記憶がわからなくなっていることに気づく。どこがわたしの席なのか、なにも思い出せない。わたしはうろうろと歩き回る。どんどん席は埋まっていく。座っているひとに、わたしを知らないか、と訊くが、だれも知らないようだ。ひとりで歩き回りながら、「最後に残ったひとつの席がわたしの席なんだ」、とひとりで言う。
別の夢では、またしても、家に帰れなくなっている。わたしは、汽車に乗って帰ることを、周りの同級生たちにもちかける。しかし、だれもぱっとしない。だけど汽車なら値段も高くないし、乗れば確実だから、それで帰ろうよ、いっしょに乗ろうよ。だれもうなずかない。

今朝もニュース。人殺し、狂女、幼児溺死、高齢者ドライバー、生涯免許剥奪。おいしい、おいしいニュースです。おとこがおとこを1日中殴っています。やけただれて穴の空いた腕。泣き叫ぶ女。ぜんぶ経済。残虐な映像を流して、目を覆いたくなるニュースを伝えれば、みんな買うから。どんどん買う。
朝の、1日のはじまりの朝の、ドーピング。父は大喜び。大喜び! わたしはたましいがへどろになる。
みな、他人をモンスターと呼んで、あざわらい、蔑み、排除する。自分にはそんな可能性は見いださない。自分が他人を殺すことなど空想したこともない。自分は事故を起こさない。癇癪も起こさない。虐待をしない。馬鹿な真似はしない。馬鹿じゃないから。他人みたいにおろかじゃないから。
わたしだってそうだ。運転には怯えていても、けっきょくは、他人を通りすがりに刺しはしないとおもっている。火をつけないとおもっているし、叫びさえしないとおもっている。狂わないとおもっている。正しく生きられるとおもっている。

みんな狂っている。

わたしはただ、報道に操作されることに同意したくないだけだ。1日のはじまりの、緊張と弛緩がどうにかバランスをとろうとしているときに、他人が殺される映像や、それがあたかも未曾有のできごとかのように話すアナウンサーの声を聞きたくないだけ。自信をこなごなにされたくないだけ。歩こうとしている、小枝みたいな足を、わたしは折りたくない。
みな平気。それどころか、父には快楽だ。
父のことは受け入れられても、アナウンサーとは目を合わせたくない。
わたしは平気で生きていない。ぎりぎりで生きている。それはだれかのせいじゃない、現実のせいでもない。だけどわたしは死にたくなくて、生きているから、殺さないでほしかった。
疲れきった。
他人を殺しつづけることが生きることなのだ。

生理前でもないのにこんなに身体を殴ってさ。なにやっているんだろうねえ。朝見たニュースのことで頭がいっぱい。もっとつらい干渉はほかにもいっぱいあるのにねえ。ほら、父さんが言っているよ、「そんなんじゃ、どこにも通用しないぞ」
もっと狂ったもので上書きする。ドーピングを消すためにドーピングを繰り返す。わたしは嘘くさくなる。

わたしはなにひとつ適当にはできない。振り払えない。見て、見て、見て、見抜きたい。

前職のときに、母が、息抜きをすることを教えてくれた。そのことを、こんどの仕事ではしたいとおもっている。いっぱいになるまえに、息抜きをすること。
わたしは、ボロ雑巾のように扱われても平気なところがある。むしろちやほやされるよりも、怒鳴られて、指を指して笑われたほうが、気が楽になって、うねうねしながら耐えて、集中してやっていける。これ以上落ちようがないから、あとは這い上がるだけ。這い上がれなくても、ふしぎでもないしね。わたしの心は実はちょっと強い。
問題は身体のほうだ。身体が悲鳴をあげる。わたしの管理をすり抜けていく。自立して、反逆をはじめる。
そんなにどきどきしないで。そんなに硬くならないで。だいじょうぶだよ。
「だいじょうぶじゃないよ、なにひとつ」

もっとうるさい。ここよりも、いまよりも、もっとうるさい。もっと残酷。もっとまぶしい。もっと定まらない。もっと躍る。もっと鋭い。もっと狭い。もっと許されない。もっと求められる。もっと多様なものがより集まって、正常なふりをして、排除する。

考えまちがえているのかもしれない。動揺しないようにするのではなくて、動揺することを受け入れたらいいのかもしれない。
きれいに生きられないことを受け入れて、ぼろくそに扱われて、どぶに捨てられて、それで…

過食をした。食べながら、「これが最後とかおもうけれど、どうせ最後なんかじゃない」とおもう。やさぐれている!

自分の幼い癇癪がおかしくなる。だが、わたしだけは、わたしを笑わないでいたい。どんなにあほらしいことに見えても、わたしは真剣だから。真剣なわたしを、父のように笑わない。わたしだけは受け止めて…それとも笑えばいいのか。

変わらされることが怖い。見たもの、聞いたものが、わたしを変えてしまう。それが怖い。

白猫いない。ぶち猫いない。

はぴはどこ。

なにもしていなくても、とつぜん、頭がおかしくなって、とても怖くなって、死んでしまいそうで…

パニック障害には運動がよい、って、どうやって運動するのだろう。散歩、自転車、それともベッドの上でヨガ。でもそれって、パニックの中でできるものだろうか。死にながらのたうちながらできるものだろうか。できるなら、できていたのではないか。

わたしはずっと、つまり、小学校から最後の学校までのあいだずっと、通学に苦労した。怖くて、不安で、広すぎてたまらなかった。広すぎて、満員電車の中で踏み潰されているみたいだった。へんだけど、そうだった。広すぎて広すぎて、頭が破裂しそうだった。そして父に何度でも置き去りにされて、失禁しかけて、頭が…

「なまけているだけ。我慢が足りないだけ。バイタリティをもちなさい」

過食は子どもっぽすぎる。

勉強しているなんて何様か、とおもわれることが怖い。勉強すらしないなんて何様か、とおもわれることも怖い。
家族の足音が聞こえたら、机の上をさーっと隠している。
そもそも机の上にはなにも置いていない。
本棚にはショールをかけて、中を見えないようにしている。こんな本読んで何様か、とおもわれることが怖い。
あとひとつでも否定されたら、耐えられないのではないか。
わたしはわたしを切り詰めてきた。わたしはわたしであることを放棄して、人間として中性化してきた。好きなもの、ない。したいこと、ない。大切なもの、もうない。そうして、父に笑われたり、母に追い出されたりしないように、目を光らせた。
ほんとうは、耐えられたらいいのだろう。だが、わたしはもう体力がなくなった気がする。あとひとつでも傷を負えば、どうなってしまうのだろう。弟はよく狂わないな、とおもう。あんなに父に言われて…。弟がどうなっても、わたしはふしぎじゃない。どうにもなっていないほうが信じられないくらいだ。よく、おもう。今夜こそ火をつけられて、わたしたちみんな、焼け死んじゃうのじゃないか…

本棚。

服もない。

鞄もない。

あるのにない。

へんなの。それが嫌だとか、父や母にほめられたいだとか、おもっているのではない。ただ、ただ、ただ、ひとつだけ、もう、傷つけないよ。

へんなの。へんなの。

父も母も立派だなあ。ずっとそうおもってきて、憧れてきて、つぶれちゃってきたけれど、でもやっぱりすごいなあ。
わが子を殴る親はたくさんいる。売春を強要する家族もありふれている。利用し、利用する。

昨日父が、働いていた頃のことを話してくれて、わたしはなんだか、胸がいっぱいになった。父が若いひとたちに、「わからないから、教えてほしい。代わりにやってほしい」と言うと、「時間がありません」と断られたそうだ。それを見た上司が、「だれか彼に教えてあげなさい」と言ったという。3者それぞれの立場をおもうと、なんだか、切ない。
父も、わたしみたいに、心はタフに耐えられるけれど、身体はその分あばれ狂う、ということがあったのかもしれない。
父は大勢の他人には好かれない。素直すぎるからだ。考えや感情がそのまま言葉や態度になる。存在そのものが表現であり、父があたりさわりのない人間になったら、それは死んだということだ。非常に利己的で、情がない。家族も他人も平等に吐き捨てられる。
けれど、という保留の要素もとくにない。
けれどね、わたしは父が好き。はっきり言って、父のような剥き出しの人間でなければ、付き合いもわからないし、愛しかたもわからないくらいだ。結婚をするならば、父に似たひととするだろう。わたしは母のようにはなれないかもしれないが、それでも、父を選ぶ。ほかにない。考えたこともない。想像もできない。
だから、他人が平気で父を傷つけるとき、父はたいてい傷つかないのだけれど(だって、蟻や、風や、机に、腹をたてるひとがいる?)、わたしはちょっとむっとする。なんというか、父は父らしくあるだけであって、それを他人に非難されるいわれはないからだ。いわれはあるのかもしれないが、それでも、「そっちががまんしろよ」と言いたくなる。

わたしはとにかくとにかく、正直な人間が好きだ。ほとんどの人間は嘘をつく。言葉の嘘も、態度の嘘も、怖い。見抜けているとおもうときほど、見抜けてはいない。他人の気持ちがわかるひとほど、わかってはいないように。

過食しすぎました。

わたしをどうしたらいいのかなあ。もうすこし落ち着いてほしい。たぶん、やすらいだほうがいい。緊張していると、なんとかしてほぐそうと、無意識が肥大してくる。トマトを道路に投げつけて、「これでやわらかくなったね」とか言いかねない。もちろん、トマトはわたしだ。

あごひげだけを剃りぬかったため、今週はあごひげがふわふわしている。
光に反射して、透明に見える。

過食しすぎたものの、気を取り直して、しかも勇気を出して、自分の身体のことはあまり気にせずに、することをする。

ファンデーションを塗る。今月はほとんど身だしなみを整えなかった。言い訳はできるが、しなかったことはしなかった。
今日はチークを塗る。えらい。

母が話しかけてくれていたが、聞こえなかった。目の前のことがわからなくなっている。

昨夜の覚醒は、ひとつはコーヒー(先日数ヵ月ぶりに飲んで、また飲んだ!)もあるが、仕事の話もあり、簡単な原因ではない。それでも、頭の中がぴかっとして、幻聴ですらなく、なんというか、わたしそのものがわたしにたいして光すぎていた。しかもわたしはそれを爛々とした目で見てしまっていて、だから、どうにもおさまりそうになかった。すこし怖かった。すこしだけだ。だが、恐怖を覚えることすらないあのようなときに、人間は振りきれるのかもしれない。

言葉にすると怖い。失ってしまいそうで怖い。言葉に見つかって、言葉よりも大きなものに見つかって、取り上げられてしまいそうで、怖い。
わたしは、うまくできないときもあるけれど、冷静なときには、とても、とても、家族に感謝している。1日にいちどくらいは冷静な時間がある。そのときに、わたしという存在の芯から、表層までが、それぞれの力で、家族に感謝することをやめない。

昨日、「家族に世話をさせることにならないように、健康や生活に気を遣うことは大切だ」と聞く。わたしは、自分が「家族に世話をされる」状態をあまり考えたことがなかった。そんなことになったら、世話はされず、見捨てられるだろうとおもっていたからだ。けれど、現実がどうなるにしても、最後まで、投げ出さない気持ちをもちたい。わたしはこんなふうに毎日毎日わからないことばかり考えていて、無駄にも見えるだろうし、他人が同じことを考えていたら、まったく理解に苦しむ。だが、わたしはわたしをすこしは知っている。ここに言葉にされないものがあることを知っている。ここは、わたしのすべてを記録される場所ではない。それは不可能なことだ。人間は意識だけではなく、無意識でもあるし、意識にしてもパー
セント、白黒つきはしない、どちらの要素ももっているのだ。

家族に感謝している。感謝しすぎて身のほどを抱えきれなくなるときもある。わたしが在ってよいはずがない。
1日中はそう振る舞えなくても、わたしの中に、たしかに、家族に対する感謝や、愛情や、愛着が、あってうれしい。
そして、うれしいとおもうわたしでいられるのも、家族のおかげだ

・身体の具合を整えること
・自分のしたいことすること
・それらの過程をじゅうぶん体験すること

居間も母も父のもの。時間も行為も父のもの。

居間にいたい。夜の1時間でいい。気が狂うニュースではなくて、風景や猫を、父と母と見たい。

弾き飛ばされてしまう。空間に弾き飛ばされてしまう。しがみついていなくちゃ、存在がなくなる。
弟はいなくなった。
つぎはわたしの番だ。
だけど耐えられない。

なんで、分けあえないの。

排除されていく。
そして、見えず、居ず、聞こえなければ、しだいに憎まれはじめる

メイクしているのがよくない。とても気持ちがいやになる。