つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

8月20日火曜日

お盆を過ぎてから、朝晩が涼しくなっている。

夢を見る。2つのハンガーラックがあり、その下には数センチのほこりが積もっている。母が、「ゴミ屋敷並みだ」と驚嘆し、大騒ぎの掃除がはじまる。わたしは言い訳をしようとするが、ハンガーラックが2つもあったこと自体知らなかった。なぜ知らなかったのだろうか、とふしぎでならない。
大急ぎで車が進む。結婚式に向かっている。車窓から、1匹のヨークシャーテリアが見える。ヨーキーは全力で走っている。車を追い越す勢いだ。いったいどこへ向かっているのか。ヨーキーは以前にも走ったことがある道なのか、すいすいと、建物の隙間も飛び越えて、どんどん、進んでいく。猛烈な勢いである。その姿が、突然消える。進行方向に待ち構えていた男が、袋の中にヨーキーを受け止めてしまったのだ。袋の中でヨーキーは動かず、丸くなっている。そばには母犬も詰め込まれているが、反応がない。地獄の日々へ逆戻り。しかし、よく見えはしないヨーキーの、不屈の精神がなぜかかんじられる。あの犬はまた地獄から脱走して、あのように全身全霊で走り、走り、追っ手を振りきろうとするだろう。
大通りに出ると、そこが会場になっており、たくさんのひとがいる。わたしはちらちらと、彼らの様子を見る。母が、「顔は覚えているでしょう」と訊いてくるが、驚いて首を横に振る。まさかわたしひとりがここへ置いていかれてしまうのか。たくさんのひとのなかには、ほとんど普段着のようなものを着ているひとも、ドレスを着ているひともいる。普段着の女の子は、しかし落ち着いていて、斜めにかけたショルダーと、傘を持って、目を伏せて歩いている。父と母と叔母が、話し合っている。「走れば5分で着くだろう」と言う声が聞こえて、5分は難しい、と声をかけると、家に帰るのではなく、待ち合わせをするのだと言う。しかし、それは中止され、また車で走り出す。コンビニに寄る。おでんが売っている。店員は数人い
て、そのうち1人は見覚えのある女性なのだが、名札を見るとちがっている。同一人物なのに。母がシュークリームをもっている。わたしは、でこぼこのソファを見つめて、どうにか、1部に腰掛ける。
つぎの建物は、図書館の気配がする。ほかにもひとがところどころにいる。階段を上ったり、する。いつのまにか、服屋さんになっていて、服がたくさんある。わたしは紺色のワンピースを着ている。結婚式のための服は家にあって、着替えに帰らなければならないのだった。レジに叔母が行く。真珠のコサージュを買おうとしている。わたしの胸につけるとよい、と言う。本人は1万円だと言うが、ちらりと見えた値札には2万円とある。わたしは心配になる。レジのひとが金額を言うと、叔母は、「まけてくれないか」と言う。レジのひとは、驚いた様子だが、「5百円まけて、9千5百円」と言う。交渉成立。
車内は慌ただしい。時間がないのだ。もう式ははじまっている。服を着替えに帰らねばならない。
郵便局へ寄る。車内に残る母に訊くと、「ついでだからはがきも済ませてくればよい」と言う。2重のカウンターがあり、叔母がすたすたと奥のカウンターの前に立つ。手前のカウンターの職員は、驚いている。わたしはどうしたらよいかわからない。ひとまず、手前の職員のところへ行く。わたしははがきを出す。「書き損じの分なので切手にしてください」職員の男は初老で、はがきは受け取らない。代わりにアルバムを出してきて、さまざまなひとびとの結婚式の写真を見せる。青色のウエディングドレスが見える。男は、「それはほんとうに書き損じですか」と訊き、はがき1枚1枚を、ひとつひとつの結婚のように、愛情深く大切に扱う。わたしはわからなくなる。ほんとうに書き損じだったのだろうか。
車内に戻ると、相変わらず大慌てでパニック状態の父と母に、「わたしはこの服で行く。カーディガンの下には紺色のワンピースを着ているから、カーディガンとレギンスを脱いで、ワンピースにコサージュを着けていく」父は驚くが、母は着替えを手伝ってくれる。黒のニーハイがさしだされ、それを履く。もしかしたら膝の上が見えてしまうかもしれないが、たいしたことはないだろう。あの結婚式は、他人の結婚式であるだけではなく、わたしの結婚のために用意されたものでもあったのだ。あの式で、わたしは用意されたひとと出会い、結婚へ向かうことになる。そう、父や母や、周りのひとびとが考えていたのだ。わたしは、郵便局員の振る舞いを見るまでは知らなかった。知ったいまは覚悟が決まり、気丈になっている。

もうひとつの夢では、生き残った幼馴染みが、自分でベランダに閉め出されたところから連絡をしてくる。ベランダから見える見知らぬ男に陶酔していると言う。わたしの母は驚いて、ばかなことはやめるように説得するが、幼馴染みは聞く耳を持たない。わたしは母に、「このまえ幼馴染みと話をしたときがあったよね。あのとき、母さんはかんじなかった? わからなかった? あのひとはとても追い詰められている。とても辛いのに、それを表せないで…」わたしは、自分がこんなにも長く話をしたことに驚く

全力で走る、ちいさな犬の後ろ姿が、脳裏に焼き付いている。

昨日、午後のおやつは我慢したものの、夕食後のその後にまた衝動的になってくる。食べてしまおうか。しかしせっかく持ち直したのだから、飲むだけにしようよ。台所へ行き、炭酸を飲む。これも、父と母が買ってくれたものなのだ。簡単に消費してよいものではない。炭酸を母と分けて飲む。父はテレビを見ていた。「1日中ひとりじめしているなあ」とおもうが、実際には、父は英会話もやるし、掃除もするし、畑に行くこともある。スマホもしょっちゅう見ている。
父に誘われて、母がわたしのそばからいなくなる。わたしはまだ炭酸を飲んでいると、母が離れたところから、声をかけてくる。「仕事のはじまるころが決まったみたいよ」
青天の霹靂! 過食のことなど頭から消え去る。夜の散歩はパスしようかな、という迷いも消え去る。勤務開始日は、聞いていたよりも、3ヶ月早まり、いまから3か月後になったようだ。引き継ぎがあるのかもしれない。
おおいに動揺はあるが、そうなるかもしれなかったことではある。
母が、「まあやってみてごらん。できるとおもうよ」と言うと、すかさず父が、「嫌ならすぐに辞めればいい」と言う。母が肩を落とす。そういうわけにはいかないだろう。紹介で働くことも、ほかで働けそうにないことも、そういうわけにはいかないだろう。しかし、父は、「(なぜ黙るんだ?)そうするより仕方ないではないか」と言う。
わたしはずっと「仕方ない」ものだった。17のときから、ずっと。父は、仕事に行けなくてもいいよ、ここにいていいよ、と、言っているのではない。働けないなら仕方がない、生きていけなくて仕方がない、自分の身には自分で責任を持ちなさい、と言っているのである。
「あの子は死んでも仕方がない」その言葉は、わたしを傷つけもするし、楽にもする。すくなくとも父は、わたしの命にあきらめがついている。もう10年も経った。

夜は眠れなくならなかった。衝撃はあったが、するべきことを考えると、気が紛れたのかもしれない。考えていたことをぶち壊す気持ちにもならなかった。ひとまずは、予定していたようにしよう。なにもかも変えてしまったら、わたしはもたない。本もそう。読んでいた1冊が読み終ってしまって、つぎの1冊に移るとき、わたしは簡単には対応できない。このままずっとページがつづけばいいのに、とおもうこともある。それでも、しばらくのあいだに読む数冊の本を決めて、用意して、なんどもなんども頭の中で、つぎに移行する想像を重ねていくと、すこしは楽に行動できる気がしている。それには、本を決めて用意する、という大きな試練があるけれど。そしてそれはたいてい、つまずく。いまもつまずいている。つぎに読む本
を用意できず、ほかの本を読んでしまっている。頭が追い付かないかんじがある。しかし、そういう、思い通りにいかない経験もあってよい。わたしはそこから、すこしずつでも、学んでいるだろう。

放蕩息子がじつは10年を1日ですごし、箱入り娘はじつは狩猟民俗で、わたしは仕事にしか生き甲斐を見いだせなかったが、弟はどんなに多忙でもけして趣味を捨てなかった。

湿度が高いようだ。

白猫いない。

妹猫いない。

父が他人に興味をもたないのは、もともとは、実母にたいして全身全霊の興味を傾けていたからではないだろうか。他人に、心を裂くなど、父には意味のないことだったのかもしれない。
わたしも同じだろうか。わたしが他人と関係を持たないできたのは、関係が持てないからというだけではなく、もっとも根本には、「要らない」というおもいがある。家族しか要らない。

カーディガンが首筋にじかに触れることを避けてきたが、考えてみれば、首筋に触れてもかまわなかった。

「とてもおとなしくて、○○だから」と言っておいたからね、と言われて、父が、「○○とはいったいだれのことか」と訊き、空気が止まる。○○がなにだったのかどうしても思い出せない。打たれ弱い、とか、気が細い、というような意味だった気がするのだが、わからない。
父が問い返したときに、「じゃあ、わたしのことは、ずうずうしいタフななまけものだとおもっているのか」と考えた。瞬間的なやりとりには、鋭い感覚があり、脳はついていけないが、ついていこうとすると、ずれていく。

スタディアプリを使おうかと考えていたら、スマホが古く、使えなかった。

今日は言葉を2度話した。声帯が弱っているようだった。それとも怖くて、声が出なかっただけだろうか。自分の声を聞きながら、自分で驚いて、戸惑ってしまう。だれが話しているのだろう。こんなにも聞こえない声で。

今日は午前中にするべきことができた。

「体力をつけるように」
どうすればよいのだろう。過剰に走り出しそうな自分と、日に1時間歩けたらすごいよ、となだめる自分がいる。
図書館に行くことか。
夕方、明日図書館に行けるように、もっと近い場所へひとりで出掛けてきた。そうしておけば、明日の動揺が少なくなるだろう、と考えて。

日のあるうちに、散歩をしてもよいかな、とおもう。恥さらしは禁止されていた。しかし、働くのだとおもえただけで、外見も、現在も、変わりはしないのだが、穀潰しが穀潰しではなくなる予定になって、恥さらしがすこしはさらせられるものになりそうで、散歩をしても、わるいことではないような気がしてくる。帽子をかぶり、ひとめにつかないように歩けば、もしも監視されていて、バレてしまったとしても、わたしは働くひとになって、家族も、働くひとがいるひとになるだけだ。「ちょっと体力をつけているだけです」と言えるのではないか。

疲れているのかもしれない。本のことだ。たぶん疲れてしまっているだけだ、休んでもよい、と車内でおもった。

わたしは…

図書館に通うことにしようかとおもう。理由もできたことだ。遊び歩くのではない。責められることはないかもしれない。わるいことではないかもしれない。

図書館のアプリも、使えない。
けれど、このスマホでいい。
仕事に通っても、LINEは使わないつもりだ。

興奮した空気の中で、なぜか母も父も立っていて、やがて母はスマホを見たりしはじめて、わたしはどうしたらよいのかわからなかった。人間の心はパーセンテージでできている。愛も憎しみも、おなじ場所にある。