つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

8月17日土曜日

夢を見る。精神科病棟に家族や親戚といる。わたしは姉をそばに置いて、患者と間違われないように、目を光らせる。個室の待合にいて、畳の上でお弁当を食べる。細長い2段弁当で、わたしは白いご飯をすべて食べていく。自分でも、「こんなにふつうのひとみたいに食べて平気かなあ」と戸惑っている。電気量販店の吹き抜けのある最上階にいる。わたしと母はトイレを探して、フロアの隅から隅へと移動していく。扉を見つけてワームホールをくぐるのだが、毎回トイレではないちがう場所へ出てしまう。いちどは、ベルリンへ出る。「いけない、ここベルリンだ! うしろへ下がれる?」と言って、わたしと母は通路をあとずさって、フロアに戻る。

今朝は早起きをしなかった。わたし自身も30分普段よりも眠って、それから目が覚めても身じろぎしないでいた。

わたしという存在の内側によろこびはなくなったのだろう。楽しむとか、よろこぶとか、そういう感覚を自分の中に存在を許し、持ちつづける、そんな力が失われてしまったのかもしれない。わたしはもう2度となにかを自分でして、よろこぶことはないのかもしれない。精神的に疲れたひとが、「これまで好きだったことをしても楽しくかんじない」と言うが、その状態がニュートラルになったのだろう。わたしには力がなくなった。

楽しめるようになるのではなく、楽しめないことに慣れたほうがいい。

金を稼いで母にほんのすこしだとしても楽をさせたい。

わたしは家族にひつようとされていない。義務のようなものとして置いてもらっているだけだ。家族と同じ時間を同じ場所でおだやかに過ごせることを求めてはいけない。
わたしは求めてはいけない。そのことをわからなくなってしまう。そばにいて、残虐ではない話がしたい。おいしいね、と言って食べて…

ひとりぽっちだ。我慢強くないから、聞き分けがよくないから、父の快感回路をふさぐから、消費するから、金を稼がないから、ひとりぽっちだ。わたしという存在は根本的に許されていない。許されてほしいと願うなどいったいなにさまなのか。家族はわたしを選んだわけではない。正常な子であればどんなによかっただろう。

身体がやすらげない。どこにもやすらげない。

おそろくわたしは従属しなければ生きていけないだろう。支配されなければ生きていられない。

昨日は、「服などを、着たいな」とおもった。

わたしはここで死ぬのだろう。

生存は許されていない。
金を稼ぐために生み出された。役目を果たすために作られた。
わたしの生存は許されていない。

金を稼いでいない。

ひとはなにをしてよろこぶのだろう。

好きだったこと。
・音楽を聴くこと
・絵を描くこと
・部屋を自分らしく飾ること
・服を着ること
・髪型
・靴を履くこと
・お菓子を作ること
・勉強をすること
・コーヒーを飲むこと
・文房具店に行くこと
・映画を見ること
・飼い猫と飼い犬
・母の日と父の日
ほぼ日手帳ガイドブックを読むこと
・空想

顔をあげられない。

金を稼げたらそれでいい。
金さえ稼ぐことができればここにいられる。
ここにいられるだけだけれど、ここにいられる。

ここ、いま、以上にはならない。金を稼いでも生活は変わらない。金を稼いでも家族に愛されるわけではない。話ができるわけではない。居場所はない。関係はない。ここは父のもの、母のもの。わたしは彼らのもの言わぬもの。それでいい。いま、ここ、それでいい、いま以上もここ以上もいらない。変わらなくていい。父がテレビを見て、英語をして、他人をこきおろしていい。母が父の話を聞いていい。わたしはいて、いなくていい。

すこし居すぎたのだろう。天気と帰省とお盆。居すぎた。身体も心も黴ている。

いまでも辛いから、いまよりも辛くなったら、耐えられないのではないか。いまよりも父がよく話し、母が父のものになり、わたしの存在は忘れられ、かえりみられなくなり、「あの子はわからない。勝手なことばかりしている。もう知らない」、捨てられる。
そのことに怯えている。そばにいなければ、すこしでも離れてしまったら、2度とここには戻ることを許されなくなるのではないか。
戻れなくても生きていけるか。

なんのために生きているのだろう。
わたしの快感のため?
なんて淋しいのだろう。

身体がじょうぶならよかった。なんでもできたのに。
精神がタフならよかった。どうにでも生きられたのに。
でもその人生にも、なんの意味があるだろう。

わたしは望まれたようには金を稼げなかった。
だから望まれたようには生きられなかった。
うんざりだ。

なにもかもにうんざりだ。

家族には絶対に捨てられたくない。

こんな人生、こんなわたしだけれど、ひとつだけ確実なよろこひがある。わたしが死んだら、父がよろこぶ、ということだ。
それだけが、わたしの希望なのかもしれない。

他人を殺す前にわたしが死ぬこと。

わたしは自分を信じていないし、他人もわたしを信じてはいない。なのになぜ動けるの。

1ミリでも動いたら見捨てられる。

遺棄される。

金を使わないことが父のよろこびだ。生活などはどうでもいい。テレビは見ない、勉強する時間がない、ネットなど使わない、ビールはもう何年も飲んでいない、と言って、見て、して、使い、飲んでいれば、言葉が優先されて、父はエリートや経済やばかどものばか騒ぎや、金のかかる家族に押し潰された僧侶になって、一切の出費をせず、一切の娯楽もなく、生きるよろこびもなく、ただひたすら金を稼がされ、金を使われる、被害者になる。

あきらめたらどうか。
生きることをあきらめるのだ。

・就職をあきらめる
・日中の仕事をあきらめる
・自立をあきらめる
・よろこびをあきらめる
・意味をあきらめる

・支配されること
・金を稼ぐこと
・稼いだ金を使わないこと
・ものを言わないこと
・目障りにならないこと
・食べないこと
・音を立てないこと

眠る。食べる。

なにかひとつがひっかかる。

自殺していなくなった、みたいに生きること。

感謝すること。
金を稼ぎ、稼いだ金を使わず、息を殺すこと。

自分を誤解していた。まるでなにかができるひとみたいに。

感謝すること。
わたしはここまで。

すべてを父の思い通りにしたらいいのだ。家の中に引きこもって、外に出ることでガソリン代を使ったりしないで、すべてを父の正義の通りにすればいい。そうしたからといって、父はなにもかんじないだろう、けれど、わたしの心は楽になる。

わたしは子どもなのに、子どもになりきれないでいる。だから、就職をすることや、自立して家族を支えることを、考えずにはいられない。

ひとつのわたしは、5秒しかいない。

だれも変化に耐えられなくなった。よくなるかも、わるくなるかも、しれないことに耐えられなくなった。ここでじっとして、なにも変わらなければ変わらないとおもっている。

疲れてしまった。

神さまに教えてもらいたい。
わたしはどう生きたらいいのか。
・自殺をする
・息を殺して、依存し支配される
・自分を自分で守りながら家族と暮らす
・自立をする

10年未来をわたしはどのようにやり直せばいいのか。
しっかりしたいとおもう。
しかし、その力がないとかんじる。
身体も心も重い。

疲れてしまった。
自分にも現実にもうんざりだ。
だれもが懸命に生きている。

わたしの努力が足りないのだろうか。
父の言う通りなのだろうか。
そうなのだろう。
わたしはいまから努力をすればよいのだろう。
ほかに道はないのだろう。

わたしは…

『アップルと月の光とテイラーの選択』を読みながら、ひとはなぜ生きるのか考える。この現実をなぜ生きるのか。
午後4時以降は理性を失うわたし、たのしみもよろこびも自分ひとりでは見いだせないわたし。この恐ろしい現実。たとえわたしが存在していなくてもそれでも恐ろしいおぞましい現実。
わたしはなぜ生きていくのだろう。
わたしは、他人を憎んでいた。心底だ。言葉では、「他人」と呼んでも、実際にはわたしの領域を侵犯するもの。わたしは他人であり、他人はわたしである。その恐ろしさ。たまらない悲しさ。わたしはわたしでいたかった。他人に犯されたくない。侵されたくない。
わたしは、愛したくて、生きているのだろう。ひとは、自分に向いていないことを信じたり、もっとうまくできることよりもできないことを手放せない。自分の中の強さよりも弱さに目がいく。自分をもっとも理解していないのは自分自身だ。脳は脳をわからない。
わたしは、他人と関係することに向いていない。そうであるからこそ、他人と関係することをあきらめられない。変わらずにはいられない。わたしはわたしをないがしろにはできない。ものみたいに扱えない。わたしはわたしを引っ張っていく。いまとはちがう場所で、できないことをできるまで、歩きつづける。
ひとりで生きてはいけない。ひとりでなければ生きてはいかれないわたしだからこそ、ひとりで生きる人生には、意味を見いだせない。不毛な場所で、聞こえない声で、形にならない言葉を、わたしは話しやめられない。
他人が怖い。みなわたしを殺すから。わたしは殺されたくないから。ましてや、わたしが殺してしまうことになったら?
家族が怖い。見捨てられてしまうから。見捨てられたくないから。ましてや、わたしが見捨ててしまうことになったら?
わたしは、たぶん、最後まで、最後の最後まで、今日とおなじように生きるだろう。考えて、動けず、動き、疲れ、理性と理性を失った時間を生きる。わたしが与える愛と、わたしに与えられる愛のことを、考えつづける。