つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

8月18日日曜日

昨夜眠るときに怖くなる。

復職する夢を見る。時間なのに、制服がどこにあるかわからない、復職のメールも見つからない。メイクのやり方も忘れてしまって、あてずっぽうにファンデーションをつけると、小麦色の肌になる。窓の外に猫が5匹もいて、そのなかにはぴもいる。はぴは伏せて、猫たちが怖がらないように、そっと、「遊ぼう」のサインを示している。目の前に延びてきた猫のしっぽを、すこしくわえる。わたしは背後の母に、てのひらを広げて、5匹の猫とはぴを示す。はぴは楽しそうで、おだやかで、わたしもうれしい。今日が出勤なのか、何時に出勤なのか、すべてが曖昧にしか決まっていなかった気がして、携帯をひらく。ひとつのメールには、「いま復職時! あなたの元同僚は課金するゲームにはまっています」とある。もうひとつには
、「姉が1級建築士の資格試験の勉強をしているから勉強をしています。わたしはそろそろついに辞め時です」

昨夜は怖くなって、深呼吸をしたけれど、怖かった。わたしのすべてがまちがいで、取り戻しようのない罪を犯してしまっている、そんな気持ちでいっぱいになって、現実を抱えきれずに、恐怖に震える。

昨日はずいぶん落ち着きがなかった。図書館に行くかどうかわからなくなっていたからだろう。具体的な行動がわからなくなったり、迷っていると、とても落ち着きがなくなる。そわそわして、やたら動き、混乱して、おかしなふうになる。じっとしていることができない。焦りが動いていく。おかしな様子になる。

昨夜怖くなった理由の1分には、メロンパンを3分の1食べたこと、160円のぶどうジュースを買ってもらってしまったこと、そこには加糖ぶどう糖がたっぷり入っていたこと、図書館の中を隅々まで母を引き連れ回したこと…

目の前のことがわからなくなっていることさえ、わからなくなっている。

わたしは、しなければならないことを1日中してしまう。それではやがて疲れて破綻してしまうから、しなければならないことをひとつもせずに好きなことや無為なことだけをめいいっぱいして、罪を犯そうとする。期間限定の罪をもつことで、その後の人生を永遠の罰として生きるなり、いつまでも罪を重ねつづける仕方のない人間として人生を過ごすほかない、と考える。これらは大真面目な考えだが、おかしい。
しなければならないことと、しようとおもえることの、バランスをとれること。簡単なことではない。それでも、投げ出さない。

これからどのように生きるのか決めたい、という欲求が強い。切羽詰まった気持ちがある。たとえば、図書館には午前中に行くのか、午後に行くのか。働いてそれからどうするのか。なにを学べばよいのか。どのような態度ですごせばよいのか。
今朝、ふと考えた。図書館に行く曜日や時間は、1年中、そしてその後の生涯、定まらなければならない、ということもないのではないか。わたしはもしかしたら、もうすこしだけ、柔軟に生きられるようになったのではないか。そんな気がした。

わたしは自分のことを「真面目」だとおもっていた。ふしぎなかんじがする。わたしはいまも以前もとても真面目なのに、真面目なひとができそうなことができない。できそうなこと?
ふしぎなのだ。自分のわかっている自分と、自分とはちがっている。わたしは真面目なのに、束縛がつらくて、わたしは真面目なのに、盲目にはなれなくて、わたしは真面目なのに、命を懸けて働ききれなくて、わたしは真面目なのに、自分を信じられずに、迷ってばかりいる。
ふしぎなのだ。わたしは公務員になったり、独学を生涯つづけたり、家事をしたり、家族のためにどんな仕事でもして、私利私欲なく、黙々と生きていられるはずだった。それなのに、わたしは、学校にも通えず、仕事にも通えず、かといってひとりで選ぶことも生きることもできない。
真面目なわたしが学校に通えない、朝から晩まで会社にいられない、ってどういうこと?
自分のペースで、ひとりきり、適当な具合に調整できて、休んだり、詰めたり、やり方を変えたり、やめたり、一生懸命やってもよくて、だれからも見張られていない、そんな仕事がしたい。なぜ? わたしは公務員じゃなくて、狩猟民俗なのか。なぜ。わたしはこんなにも真面目なのになぜ狩猟民俗なのか。

わたしは言葉に囚われて、自分を見つめることも、知ることも、してこなかった。わたしが、「真面目」という言葉に信じるものに、わたしを見ていた。でもわたしは言葉じゃない。だからずれてしまう。

それでも、やっぱりおかしなかんじがするのだ。わたしが狩猟民俗だなんて。わたしはひとつの会社に就職して40年間そこで働きたかったのに、わたしは落ち着きがなくて、狂ってしまいそうになる。とにかく、明日も、来週も、1年後も、そう考えると、息もできなくなって、苦しくて…いますぐこの枷を振り払わなければ、この義務から離れなければ、そうでなければ、つぶれてしまいそうになる。

10年1日が、1日10年。1日10年が、10年1日。反対の方向に進み、憧れ、求め、求められて、ひつようであっても、ひずみはなくならない。

身体感覚に生きる時間がやすらぐ。思考が止まり、身体が先行する時間。解き放たれる。人間から、現実から、時間から、命から。信じられないことだし、考えたこともなかったが、わたしは会社員よりも、スポーツや手仕事が向いていたのかもしれないね。自分の場所で、自分ひとりで、思考せず、できること。
自分の具合でならば、本を読んでいけるのではないかとおもう。本を読むことだけが、わたしの手仕事。

愛しかない。愛ばかり。
知りたいことも、できたいことも、けっきょくは愛のことだった。わたしは人間を愛したかったのだろう。そして人間に愛されたかった。愛するということは、手に入れることではない。知ることだ。知ることが愛になる。愛と呼べる。存在を認識することが愛だから。

言葉にするとひるんでしまう。けれど、こうして言葉にしていくと、自分がどのように考えるのか、どのように迷うのか、どのように怯えて、混乱し、あきらめきれず、努力したがり、逃げたがるのか、すこしだけ、わかるようになる。だから、いまは言葉にしても、言葉に縛られなくないでいられる。わたしは言葉を超越している。そのことに気づいたから。

今日、仕事の勉強の話が出た。そして、こうおもった、「黙って受け取るのではなく、応えるべきだろう」、だけど、気負わなくていい。できないことはしない。できるならば、こんなに苦しくなりはしなかったのだから。できることをしよう。

できるならば、こんなに苦しくなりはしなかった。

人間は、変わったり、変わらなかったりする。
わたしも、人間のようなものだから、壊れたり、直らなかったりする。すこし持ち直したり、また壊れたりする。

たぶん、わたしは、自分でかんじたり、考えるよりも、取り返しのつかないものになってしまったのだろう。致命的なものが壊れてしまって(壊したのはわたしだろう)、それはもう2度ともとには戻らない。よく他人が、「会社はあなたの面倒を生涯見てくれるわけではない。だからいまいるだけの関わりしかない会社のために、自分を投げ出してはいけない。ゆだねてはいけない」と言う、その意味がわたしにはわからなかった。未来はなくて、いましかなくて、今日しかないのに、明日もあると言われて、心がつぶれそうだった
わたしのなかのどこかが、損なわれてしまった。リストカットと変わらない、わたしは自分に2度ともとに戻らない損傷を与えてしまったのだ。傷つくことをゆるしてしまった。それどころか、自ら、身体を投げ出した。なにかと比べて決めたことではない。そのひとつしか選択肢はなかった。
自分をあわれにおもうというよりは、だれかに謝りたい気持ちだ。こんなふうに、自分を損なってしまって、ごめんなさい。だれか、ごめんなさい。

これから先、生きていく時間の中で、わたしはわたしを見つめたい。損なわれてしまったわたしを、知りたい。
知ることは愛だから。