つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

8月16日金曜日

身体を細くするふくろうのように、通りかかったもの(わたし)を見て、穴の中に身体をめりこませていく。消えてなくなりはしないが、消えてなくなりたいとおもっているのか。名前を呼ぶと、動きが止まる。存在がやわらかくなる。
わたしはあなたを殺さない。
あなたもわたしを殺さない。

「努力した」とひとは言いたくなるけれど、「努力することを許された」ことにまずは感謝したい。

父さん、お金を稼いでくれてありがとう。母さん、家事をしてくれてありがとう。
朝ごはんがおいしくてうれしい。

就職に至らなくても、時間や職種を工夫して、お金を稼ぐ。

父は二分法だ。これはよい、これはわるい。父の法の下で、わたしも弟も、育った。
わたしたちがどのようにものを考えるのか、わたしたちはなにの領域にいるものなのか。そのことを捉えること。

あれだけの風が吹いて、家一軒、どころか屋根ひとつ飛ばされていない。大工さんすごい。設計士さんすごい。樹すごい。地面すごい。なんか、とにかくものすごい。

言葉にしたら大きすぎて、間違いみたいな気持ちがして、怖くなる

いまここ。

大火傷をおってただれた穴の空いた腕が映し出される。これからそれに関するニュースを放送する、という短い宣伝。ニュースがはじまる。経緯が語られる。少年の腕に火がつく映像が流れる。つぎに映し出された腕にはモザイクがかかってある。視聴者への配慮というわけだ。
連日、男が逃げ場のない男を殴る映像が繰り返し流れている。
父は大興奮して、けらけらと、それから鼻で笑い、「どいつもこいつも」と言う。話して話して話す。
日本中で、ものがよく売れ、胃腸がフル稼働していることだろう。台風の影響など、消し飛ぶ勢いで。

わたしがいなくなったとたん話すことをやめて、行動して、まるで話などしていなかった、そんな暇なかった、というような音がする
わたしを追い出している。無意識だから、淋しい。

この前、「自殺者がでたらあとまで言われつづけるからね」と他人が言った。ふしぎな気持ちがした。

父は目の前のこと、自分のこと、しか考えられない。いまこの瞬間に他者を従わせたい、いまこの瞬間にいなくなってほしい、いまこの瞬間に金を稼ぎ、いまこの瞬間に自殺してほしい。父は人間で、人間はパーセンテージの意思をもつ。わるいとか、モンスターとか、そんなわかりやすいものではない。わたしもだ。

夕食のあとは辛い気持ちになる。1日が終りそうで、ほっとして、やすらごうとする無防備な身体に、1日のうちでもっとも鋭いものが投げつけられる。

首を吊ること。
父は喜んでくれる。

今日は母が美容室に連れていってくれた。カット代も払ってくれる。帰り道、頭の中で考える。わたしは父を慕っていて、父もわたしを溺愛していた。父にとってわたしは、生まれてはじめて手に入れた、純真無垢な子どもだった。破綻した関係を言葉で見つめる。

わたしはモンスターではないということ。
人間は多様であること。
だから、人間をモンスターと呼ぶ人間も、わたしは許容したい。
わたしは人間を信じているということ。
人間の醜さも、無垢さも、変化も、強さも弱さも、信じているということ。
だから、わたしは殺されたくないし、殺したくもないが、殺されることも、殺すことも、人間のわたしに起こりうることであると、受け入れたい。

自殺すること。

人間の無意識が怖いこと。怖いことを手放せないこと。ないことにできないこと。わたしはなにひとつないことにできない。

父に愛されたいのは、古い恋人に執着しつづけるようで、笑ってしまいそうだ。

母の記憶。星の王子さまを、読み聞かせてくれたこと。絵本ではなくて、言葉だけ、声だけの物語は、わたしには難しすぎて、もどかしくて、けれどすこし誇らしくて、部屋の灯りの色まで覚えている。

父の記憶。あぐらをかいた上に座ることが好きだった。わたしは周りの少女よりも無垢で、よく話しをして、野山を駆け回り、たぬき寝入りをして、よく泣き、よく笑った。そんなわたしを父は愛した。それは父にとって生まれてはじめて、人間を愛することだったのではないか。
父もあの頃は、よく話しをして、よく笑った。

疲れている。夜は疲れている。
やすらぎかたがわからない。
やすらぎかたを身につけられなければ、どうにもならないのではないか。

美容室では深呼吸をした。ずっと、深呼吸をした。
帰りに見た鏡の中のわたしは、あたらしい髪型が意外にも似合っていて、ふしぎだった。はじめから、この髪型だった、みたいに。

1匹の猫が見あたらない。

「あの子ったら、『孫を生んであげたんだから』なんて言うから、叱ったの。いったい、ひとりの人間を育て上げるのに、いくらかかるとおもっているの、そのお金、だれに出してもらうとおもっているの。ありがとうございます、でしょ」

わたしは、彼女の言葉ではないとおもう。彼女が思いつき、口に出したのではない。周囲が先に言葉にしたものに沿って、彼女は生きたのではないか。「あの子はどうしようもない。でもまあ後継ぎを生んでくれただけでもね」そんなふうに、捨てられたのではないか
わが子を見捨ててはならない、とは言えない。いつまでも面倒を見て、最後まで愛して、受け入れて、支えてほしい、とは言えない。娘は言えない。
ふたりよりも、ひとりのほうが、安い。
それは言葉にされなかったとしても、生まれることを止められない、消えることもない、了解だったのではないか。

わたしは疲れた子どもで、早く眠りたくて、ぐずっている。

大人になるということは、家族と離別することではなくて、家族と適切な距離を持って、冷静に付き合えることだろう。わたしはそうなりたかった。なりたい。

言葉がもっとも淋しい。
言葉がもっとも切ない。
言葉がもっとも醜い。
言葉がもっともままならない。
人間はもうすこしタフだ。

「この街の踊りがくだらなく、隣街の踊りがすばらしい理由がわかった。この街の踊りは女子どものレベルの踊りでしかない。だから参加者も90パーセント女子どもだ。一方隣街の踊りは男の踊り、レベルの高い踊りだ。だから俺はこの街の踊りがくだらないこと、隣街の踊りがとてもとてもすばらしいことを、とっくに知っていたのだ。その理由がいまわかった」

自分が歯がゆい。もっと感謝してほしい。

わたしが多少とも冷静にものが考えられる(考えられるとして!)のは、午前7時から午後4時までなのかもしれない。

核兵器が用いられ、放射能まみれになって、内側からも外側からもただれて死ぬ。
地震が起こる。
交通事故。

わたしは死ぬかもしれない。