つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

8月8日木曜日

ぐっすり眠る。帰れない夢を見る。

はぴがいなくなって腰痛になった父を見ていると、運動するべきだとかんじる。めんどうでも、人生をめんどうがってはいけない。

ブイヨンが死んだときには、「長い散歩に出た」のだとおもった。はぴのときは、そうはおもえない。

回復するひとの共通点は、薬でも、メンターでもなく、複数の人間関係なのではないだろうか。洗いざらい話せるひとがひとり必要というよりも、ごくありふれた話をできるひとが、話題ごとに、ばらばらでいること。庭の話ができるひと、本の話ができるひと、食べ物の話が、家族の話が、文房具の話が…そうであれば、ひとつの関係や、興味が途絶えても、孤立はまぬがれる。小さくて、細い紐で、たくさんのひとや時間と繋がっていること。それが、回復するひとにはあるのではないだろうか。
回復しないひとは、孤立しているひとではないだろうか。
心の話よりも、挨拶ができること。

具合の整わないひとは、ひとつの話題しかもっていない。自分自身のことしか話せないし、考えられない。死にかけているからだ。そのときに、他人は働きかけられるだろうか。なんでもない話をして、苦しいひとの顔をあげられるだろうか。わたしは顔をあげられるだろうか。

ひとり暮らしのことを考えると、途方もないが、それで加速するのでも、引きこもるのでもなく、将来そういうことになるのかもしれないね、くらいの曖昧だけど無視はしない気持ちになれている。そのことばかり考えずに、ほかのことも考える。たとえば、運転ができるようになる、とか。

はじめてなのだ。自分が生きる可能性を考えることは。そして、はじめてなのだ。自分が生きる可能性を考えてもおかしくない、とおもえることは。
17のときに、「死んでも仕方がない」と父に言われて以来、わたしには未来がなかった。母に「その血液型はけして自殺しない」と言われてからは、板挟みになった。わたしは子どものころからそうしてきたように、家族を養うことができるものになることしか、考えなかった。自分は個人ではなかった。他人のもののようだった。宇宙のもののようだった。
先日母が、「こんなにお年寄りが生きているのに、あの若いひとが死ぬなんて、おかしい」と言った。何気ない、本音のこぼれたひと言でしかない。しかし、わたしは、驚いたのだ。そこではひとが生きることが許されている。わたしもひとだろうか

はりねずみが祈っている。

男性性と女性性が、脳の中のべつべつの部分で、すくすく育ったのではないか。それらは融合せず、淘汰もされず、各領域を司る。

すだれ。

すだれ。

積み上がるもの。昇るもの。音はうえにうえに向かう。

毎日立ったまま本を読んでいる。強くなるか。

自分が倒れることよりも、倒れたわたしを見て驚く周囲が怖い。

蝉がないている。
時速60キロで川の流れを遡って飛んでいた、頭の白い鳥。

母とアイスを食べる。せっかく食べているのに、うれしい顔ができなかったこと、心がひっかかって、わからなかったことが、残念だ。

仕事はどうなったのだろう。

光。

わかりやすくしたい。わかりやすくありたい。わかりやすいものにしたい。わかりやすく。
ひとめでわかるものにしたい。
わたしがどのように生きればよいのか、わかるように。

身長178センチで体重がせいぜい55キロほどの男性がもつ乳房しかない。

1日中甲子園を見ていたのに、夕食後わたしが母にテレビをつけてもらったから、父の機嫌が悪い。わかる。我慢していれば平気なことも、満喫したあとは奪われたようにかんじるものだ。1日中見たのだから、夜も見たかったのだろう。

出掛ける。1週間ぶりくらいだろうか。はらはらとする。簡単なことではなかった。図書館に行くだけで、これほど困難なのだ、とあらためて思い知る。なにもかも、夢のような気がする。2階を見て、1階を見て、3階を見る。おつかいを果たせて、ほっとする。おつかいを気軽に頼まれたことも、応えられたことも、うれしかった。できてよかった。
深呼吸をする。

帰宅してほっとする。車に乗られなければ生活できないのだが、乗れなくても、生活はできるのかもしれない気がする。いまできることのほとんどはできなくなるが、どうにか工夫すれば、不可能ではないのかもしれない。とても不便ではあっても。
たとえばスマホのアプリも、なくてもいいように、多くのものは、なくても、暮らせないわけではないのかもしれない。
毎日買い物に出掛けられれば、安いものが買える。…

親に6万円を援助しているというテレビ。両親が見ている。わたしは、歯などを磨いている。

夜遅くにスーパーにひとりで出掛けて、「いちばん安いもの」を買っているという。老人が、ファイナンシャルプランナーの前で、堪えかねて、泣き出す。

母が、「両親とは別に暮らして、生活保護を受給してもらうしかないのでは」と言う。
父は不機嫌なまま、見ている。

わたしは、なにをしているのだろう。

わたしは、なにをしていないのだろう。

わたしは、なにをしているのだろう。

帰宅すると、ほっとして、達成感もあって、自分に自信がもてた。これからもだいじょうぶな気がした。難しいことかもしれないが、歩いていける、そんな、気がした。

そんな気がしている場合ではない。

頭がよくなくなる。

同時に細かく震えるものもある。それはわたしに、「わたしであること」を伝える。
わたしであること。

たったこれだけの、わたしであること。

できることなら、普通の社会人になって、両親を安心させたい。

わたしであること。

わたしであること。

仕事。

恨んでいないと言えばおそらく嘘になる。だが、恨むのは筋違いだ

わたしのなにがいけなかったのか。友だちをもたなかったからか。この世はひと殺しだらけではないか。家族を捨て、殺されなければならなかったというのか。

入浴から出ると、うながされる。扉がわずかに開き、閉じる。わたしは、そのままの顔で、逃げるように、飛び出していく。

弟が笑っている。

夕食後にテレビを見たがると、父にも母にも迷惑だ。
わたしはどこかに居たくて、その方法がわからない。あきらめかたもわからない。家族をあきらめたら、なにが残る。

首を吊れば親孝行になる。