つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

7月22日月曜日

雨が降っている。
ごみを出しに行く。ごみ袋が大きくて重くて、左足に当たってしまう。ズボンを洗濯に出す。こんなことをして(雨なのに洗濯を増やして)よくない。

犬が丸くなって寝ていた。こちらを見ているかとおもったが、見ていなかった。目を閉じていた。

「転職は簡単にできる」というテレビ画面を見て、父が、「あーあーあーあー」と言う。朝食の時間。父がため息を吐く。

わたしが自殺したら、両親はほっとする。

わたしが家を出て、閉鎖病棟にでもどこにでも行って、世帯分離をしたら、両親は心置きなく、生きていけるだろうか。
そうなのだろう。
わたしはしがみつくべきではなかった。
こんなふうに、最愛の家族を、殺してはならなかった。

マッド・ヘイグのことを考えていた。支え手があり、話を聞いてもらえて、生活の心配はしなくていい、生きていい、と言われて、時間をもらえて…そうではなくても、たとえたったひとりぼっちで生活保護者になって…それでもひとは生きていかねばならないのだろう、生きるに価するのだろう、生命とはたぶんそういうものなのだ、恩寵なのだ。それができなかった。恐ろしくて。選択肢はあったか。わたしは自分を殺す代わりに、家族を殺してしまった。

言ってはもらえない。床に這いつくばって、聞き耳をたてる。壁にへばりついて、聞き耳をたてる。意向がひつようだから。
母の食事の準備を手伝うと、まるで、急かしているように受け取られてしまうのではないか。
役割を与えることは難しいことだ。

実際のところわたしはだれの役にもたっていない。役に立つ? いったいなにさまのつもりだろうね。

自殺するのが怖い。
家族に見捨てられるのが怖い。
どちらも、とても怖い。

わたしを殺すしかない。
他人は変えられないのだから。操れないのだから。わたしのものではないのだから。

従順になるか。
首を吊るか。
心を変えるか。

昨夜も父が、「そんなことでは通用しない」と言う。30年間聞きつづけてきた言葉だ。わたしは聞いている。聞いている。

もういいかげんにしてくれ。
わたし、いいかげんにしてくれよ。

自分を守ることにひっしなのだ。この役を代わりにしてくれるものはないからだ。
極端なことを考えたり書いたりすると、すこし気分が緩和される。そこそこでいいよ、とおもえてくる。
そしておもう、自分なりにがんばったり、たのしんだり、家族を大切にして生きて、そうしてどうにもならなくなったら、自殺したらいいんだよ。

死に物狂いで、自殺を回避したくなっちゃうよね。

本を読みながら、ふと、スターバックスが思い浮かんだ。そこで、身を落ち着けて、なにかを飲む。そういうことが、遠いけれど、ありえないわけではない、そんなにおかしなことじゃない、と…。

わたしは頭が弱いから、父は賢いひととお金を稼ぐひととよく目を見開いてうなずくひとが好きだから、好きにはなってもらえないよ。

わたしは頭がこうしておかしいけれど、2秒ごとにものを考えているけれど…

わたしはここに書かれているふうなことではなく、もっとなめらかに、おかしいけれど、毒だとか、殺人者だとか、爆発するとか、触れないとか、そんなふうにもっとしっかり芯から自然に圧倒的におかしいけれど、それはもうわたしだから。
そういうわたしを生きてきたから、20年以上も、だから、わたしはそういう奇妙さにはあまり考えがない。

でもね、わたしがそうして忘れてしまうおかしさのことを思い出すと、仕方ないよね、わたしは自殺するでしょう。

家族に感謝している。食べ物があって、眠れて、心配してくれる。いってらっしゃいと言ってくれる。ありがとうと言ってくれる。恩返しができなくてごめんなさい。かならず、恩返しをするから。わたしを…

雨が降っている。すずめが大勢鳴いていた。なにかあったのかもしれない。

母が連れて歩いても恥ずかしくないような格好でなおかつ母よりも予算と自尊心の低い格好…
買い物に出掛けながらそのようなことをつらつらと考えていたら、到着して、わたしは異様なものだった。まわりのものや人間と解離していた。同調していないだけではない、ずれていて、重なっていて、それでいながら解離している。妙だった。だけど、ずっと妙なのだ。

会社から自由に行動できてとうぜんだと大人はおもっているらしい。価値観のちがいに戸惑ってしまう。タタール人の砂漠やカフカこともそうだ。みなはそれらを異質のもの、恐れている、ああはなりたくないとおもっている。だけど、わたしは、あの中に生まれて、あの中で生きてきた。外のことは知らない。
よくわからないのだ。
個人が生きるとはどういうことなのだろう。
わたしがおもっているようではないのか。

タタール人の砂漠は涙が出た。まるでわたしであり、わたしである中で最上のよろこびが描かれていたからだ。すなわち、季節の光を見いだすということ。

感情豊かに、言葉豊かに、話せるひとばかりではない。どんなにそれが求められる場面であったとしても。

夜の散歩に行く。
ときどき、犬が、飛んで寄ってくることがある。犬にはDNAがわかるのではないだろうか。わたしを母と勘違いしているのだ。