つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

6月27日木曜日

信じなければならない。
パンツの中にむかでは入っていないことを。
立ち読みをしているあいだに鞄の中に麻薬を入れられてはいないことを。
信じなければならない。
カーテンの裏、ベッドの下、クローゼットの中、たんすの横のありえないほど狭い空間に、殺人者は隠れていないことを。
階段を上る足音は合図ではないことを。
殺されないことを。
100パーセントではなくても、天秤にかければ、わたしを殺さないことを。
信じなければならない。

今朝はパンを素手で食べた。大雨が降っていて、朝は眠くて、二度寝をした。刺し子はもうない。終ってしまった。またやりたいが、材料をどうして購入すればいいのかわからない。購入していいのかもわからない。3日連続鼻血が出る。
「ぬるま湯に浸かると、甘えること逃げることを覚えると、二度とまともには戻れない」そう言って…
「恥さらしは外に出てはならない。家族を辱しめてはならない。社会の中にいてはいけない」そう言って…
直るまで隠れていなくちゃ。早くまともにならなくちゃ。みんなができることをわたしもできなくちゃ。できないままでは許されない。生命が許されない。できないことをできなければならない。さもなければ自殺して、迷惑な生命を永遠に隠さなければならない
悪気はなかったのかもしれない。それとも本気だったのかもしれない。たぶん本気だったのだろう。父も母も、本気だったのだ。
ときどき空想する。もしかしたら家族はもうわたしを諦めたのではないか。まともなみんなとおなじようにできるわたしを諦めて、しようのないわたしを知ったのではないか。それでもわたしを100パーセントではなくても、悩んで天秤にかけるたびに、「受け入れるしかない」とおもっているのではないか。
わたしは生きてもいいのではないか。自殺しなくてもいいのではないか。
今朝は2つとも学生の頃の夢を見た。段になった音楽室の席についていて、隣の席の友人の話をはんぶんしか聞いていなかった。そしてはんぶんしか話していなかった。ずれている。指示があって、わたしは席を移動しなければならなくなる。すこし先に移動するだけかとおもっていたら、下の段の女の子がそばに移動してくる。わたしはひとつ上段に移動しなければならないようだ。しかし席にはたくさんのクラスメイトがいて、通路までたどりつけない。隙間を見つけて、「ここをくぐらせて」と言って、上段の机の下をくぐって位置についた。ひとりが手をあげると、斜めになっていて女の子が勢いよく吐いてしまう。間に合わなかったのだ。その瞬間になぜかじぶんのくちびるによだれのたまがあることに気づいて、くちびるをぬ
ぐいたい。けれどいまそうしたら、吐いた子へのあてつけのようで、戸惑ってしまう。
もうひとつの夢では、力士と班になって席についている。食卓にはトマトと椎茸の煮物や、ほかのものが並んである。力士が食べ始める。彼らには少なすぎるし、栄養も足りなすぎるメニューのようにおもう。戸惑いながらも、わたしだけがまだ手をつけていないことに気づいて、小皿をとり、トマトと椎茸を選んだ。隣の班の食卓には友人の姿が見える。そのひとは手に刺し子のキットを持っている。はじめてらしく、隣に座る友人とそれぞれのキットを見ながら話し合っている。わたしはどきどきする。自分の刺し子を見せようか。わたしはやったことがあると言おうか。思いきって声をかけるが、無視されてしまう。とても悲しい。

諦めていいよと自分に言う。これからは耐えることを覚えよう。
同じ自分が言う。最後にもう一度だけ頑張ろう。これだけ成し遂げよう。たったひとつ、これだけ。たった一度、いまだけ。望まれていた形にはほど遠い。よろこばれるか、わからない。くだらないこととか、余計なことかもしれない。浪費だとおもわれるだろう。たぶんその通りなのだろう。なぜなら望まれていることは、わたしらしさではなく、わたしの安らぎではなく、他人らしさであり、世間に通用する肩書きなのだから。
苦労をして来たから、わたしには簡単に生きてほしかったのかもしれない。創造力が足りなかっただけだ。わたしがこんなにも苦労をするとはおもいもよらなかっただけだ。
普通に生きてきて、事故に遭うように倒れるひともいる。わたしはちがうのだろう。わたしは欠陥のある車のほうで、家族が、はね飛ばされたひとびとなのだ。
あとひとつだけ、到底無理ではないことをがんばって、根気強く取り組んで、成し遂げたい。そして、わたしはわたしのことを知って、コントロールしたい。ひとつだけ、みんなのように、世間らしく、恥ずかしくなく、素晴らしくはなくても、もっとも望まれた形ではなくても、みんなのように成し遂げたい。そして、「よくがんばったね」と言われたかった。「もういいよ、もうじゅうぶんだよ」と言われたかった。

家族に責任を押しつける気持ちの強さはわたしにはない。生命になっているだけだ。家族がわたしの生命になっている。
書くと怖い。
わたしは…

強くなりたかったのは、そうあらなければ許されなかったから、それだけだったのかもしれない。

父はよく、わたしを遠くの場所へ置き去りにした。わざと、そうした。訓練だった。わたしは怖いから、父を頼っていたのに、そうして置き去りにされて、「バイタリティをもて」と言われて、悲しかったのかもしれない。

どうすればよいのかわからない。生き方を定められない。
定められた生き方を捨てられない。
怖くて身動きがとれない。

時間がなかった。

巣だって間もないヤマガラ(まだ色もない)が、生まれてはじめての台風の嵐の中で鳴いている。 

文章は常に狂っている。

「左利きは個性で、絵がうまいし、むしろ右利きの人間よりも頭がいいから、利き手を矯正しなくていい」と父が言う。わたしは左手であまりにも下手な絵ばかり描いていたのだろう。
永遠の子ども。神の子ども。
支配されることはやさしい。わかりやすくて、心地よい。

性格や精神状態を考慮しなくても、わたしは他人よりも知能が低いのだろう。周りの人間よりも、1年、2年、成長が遅れていると10代の頃からかんじてきた。だが、いまでは、遅れていたのではないとわかっている。足りなかったのだ。低かった。
そのことをときどき忘れる。周りのみんなと同じ人間だと勘違いしてしまう。わたしは人間ではない。足りなくて、人間にはなれなかった。
生きたいとおもう。この身の作りを受けとめて、そのかぎりで、のびのびと、誠実に。

怖くてたまらない。生きたいなどと考えてはならない。

働いて、本を読み、家族と暮らしたい。

夜散歩をする。電話をする男がいる。ピンク色の線の入った白い車が交差点で減速する。傘と買い物袋を持った人間がいる。同じ男だとおもう。殺人者がたくさんいるとおもう。