つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

6月28日金曜日

雨の予報が続く。今日は曇りと晴れの予報だったが、曇りと雨の予報になる。朝陽が差している。
ひっしに考えている。どうすればいいか。どうすれば嫌われたり、呆れられたり、見捨てられたり、殺されたりしないか。今日と明日のどちらのどの時間に図書館に行けば、殺されないか。わからなくて考えている。

迷いながら、刺し子を見てもらう。朝食のあとの、普段は居間に行かない時間帯だ。直後に父が「この洗濯物はいつたたむのか」と母に言う。胸が苦しくなる。
いつまでも働いていないから。
もしかしたら働くつもりはないのかもしれない、とおもい不安になって、苛立ったのだろうか。
本を読んで、刺し子をして、働かないつもりなのか、とおもい、混乱したのだろうか。
自分さえ信じていればかまわないことだ。「わたしはきっとできる」とおもえていれば些細なことだ。自分を信じられないから、動揺するし、気になってしまうのだろう。なぜ自分を信じられる?
刺し子は布がなくなって、もう作れなくなってしまった。布と糸を買いに連れていってほしい、などと言うと、母はどうおもうだろうか。
他人を支配してはならない。なにをかんじるか、どう考えるか、それは他人それぞれの自由であってほしい。支配するものとと服従るものは、互いに制御しあっている。強くなりたい。自分の顔をもてたら、だれにとってもよいことではないか。
よりかかられることをもっとも嫌っているわたしたちが、だれよりも、支配しあっている。
自由にならなくちゃ。それが親孝行だから。
わたしを罵倒できるくらい、世界を罵倒しけなし笑い者にしているように、わたしを罵倒しけなし笑えるくらい…

殺人者だらけの夜だった、昨日は、そういう夜だった。朝起きたら喉がいたい、鼻水が出る。窓を開けたら朝陽が差して、首輪をした茶色い犬がひとりで歩いていた。家に帰れますように。

怖いけれど、歩き出さなくちゃ。でもおかしなことはしないで。狂ってもいいなんておもわないで。1歩ずつ、しっかり、歩いていくんだよ。

午前中は迷って、図書館に行かなかった。夕方に行こうかと考える。金曜日は午後に生協の受け取りに行く日だった。代車に乗って、両親と3人で行くかな、と考えていたが、「病院で下ろしてもらう」と母が言う。わたしは数に入っていなかった!
図書館に行こうかとおもう。
昼食のあとは、読む図書館の本がもうなくて、家計簿ごっこをした。収入がないのに、おこづかいを記録できるように、ルーズリーフに線を引いたり、数字を書いたりした。バレットジャーナルを書いてみたもの(フォーマットを書くだけで、実際に記入することはないとわかっている)を、利用した。
収入がないのに!
この春、おこづかいを使う練習をしようとしていた。買うべきだとおもうものはなかった。それでも、まったく使わないでいると、反動で(今月みたいに)、一気に「必要なもの」を買い求めてさまようことになる。何度もそれを経験してきたことに気づいた。ときどきでいいから、なんでもないもの(ペットボトルの水とか、ルーズリーフとか)でいいから、買うことを経験して、学んだ方がよい。昔から、わたしはものの買い方が下手だった。必要なものばかり買ってしまって、貯金してほしいものを買うことができなかった。弟はそれが得意で、ゲームをきちんと買えていた。昼ごはん代や、文房具代、学校で盗まれた五千円で買う予定だった電車の定期代などに使っていた。画材も高かった。画材でも本でも、ほんとうにほしいものは買
えないのだと諦めて、こまごました手に入りやすいものを買ってしまった。手に入りやすいといっても、おこづかいは圧迫された。
お金の使い方を知らないのだろう。社会人になってからも、考えなかった。給料なんていらないとおもっていたくらいだ。働くことはたいへんで、やりがいがあって、楽しかったし、苦しかったから、給料で拘束されたくないと考えていた。無給で働きたかった。その方が怖がらずに、のびのび働ける気がして。
この世の中には、すくないお金で生きているひとがいる。アルバイトのお金や、障害年金のお金や、おこづかい…などで。みんなそれなりにやりくりしているのだろう。すべてを自分でやりくりする社会人にもちろんなりたい。だが遠くばかり見て、夢ばかり見て、そんなことではいけない。
家族に養ってもらっていることをまっすぐに自覚して、うんと感謝したい。そして、すこしずつ働いて、お給料をもらって、自分のできる範囲でやりくりすることを学びたい。
国保代も生活費もロキソニン代も、わたしが払うからと言って契約したNHK代も、家族が助けてくれている。年金は免除してもらっている。退職後払い続けてきたが、もう払えなくなった。
立派なひとになりたい。普通のひとになりたい。でもなれなくても、しっかり生きていかなくちゃ。
家族に感謝をして、自己管理をして。
死ぬときに、びっくりしないでいいように、毎日間違わずに生きたい。心だけは間違いたくない。

昨日父がテレビの跡取りがいないカレー屋さんの苦しみを見て、「おれがついでやりたい」と言った。そういうところが、わたしは父に似ている。なんでもできるような気がするのだ。

のどが痛い。身体がちがうふうにぼやけていた。

午後2時半出発する。「図書館に行ってすぐ帰るだけでいい」と考えて進むが、迷い続ける。最後まで迷い、車が連なっていたから、進んだ。歩いて行けない気がしていて、歩いて行きたかった交差点の向こうに行く。駐車場がわからないかもしれなかったが、わかった。文房具店に入った途端に目に入った棚に、現実には存在していないとおもっていたすてきなノートが並んでいて、どぎもを抜かれる。
どこにあるのかわからない。字もよく読めなかった。たくさん標識はあった。見た。でもよく読めなくてわからなかった。店員さんに声をかけた。風邪で声はかれていた。マスクもしていた。そうでなくても、声を出さない毎日だから、声が出て、質問が伝わったことに、たぶん驚いた。見つからない場所から見つけてくれる。「どちらの大きさですか、1枚ですか」と訊かれる。ものを考えずに返事をしたようだった。受け取ると、想像していたよりも大きくて、わからなくなる。レジに行くと、「セール中なのでお安くなります」と言われる。袋に入れてくれる。鞄の中には入らない。
図書館に行く。入り口を間違える。受付のひとびとが怖い。受付のひとなどいないふりをして、不自然に顔を背ける。手に持った大きすぎるビニールががさがさ鳴る。
どの棚の通りを歩いても、ビニールががさがさ鳴る。
1日で、その本はなくなり、予約が何件も入っている。どうしたらいいのかわからない。ビニールが床に落ちて、大きな音がする。逃げていく。
大急ぎの気持ちで帰る。この大きなビニールを家族に見られてはいけないから。なぜだろう。ばかなことをしているとおもわれたら、自分を破壊してしまうからかもしれない。笑われたっていいはずだった。賢いことをしているわけではたぶんないのだから。しかし、悪いことなのかどうかはわからない。悪いことならわたしはしなかったとおもう。それなのになぜこんなにも隠れるのだろう。怖くて仕方がないのだろう。

家族が帰ってきて、「帰りが早かったね」と驚かれる。どうとも反応できずに、まだ…

「480円のものが380円になる」と思考すると、デジャヴとなった。今日1日が、なにもかも、デジャヴだった。

ニュースでは、ひきこもりが小学生と外務省職員をたくさん殺してから1ヶ月だから、18年前の殺しの犠牲者の少女の母親の回復がインタビューされた。顔をあげられなくなった。わたしが殺したし、わたしが殺すのだというかんじがする。顔が動かなくなる。だれも話さない。社会にひねりつぶされる。だれかのために死ななければならない命が、死なないで、食べていて、だから、わたしは殺していた。
ひねりつぶして殺していた。
わたしではなかったわたしを…

心がいちどにねじれる。憎まれて憎み、捨てられてすがり、死を願われて殺している。社会はわたしを受容しないと考える。お皿を拭きながら。

だれかのために死ななければならなかった。

つぶれそうになるものをつぶすこと。先に先に、傷つけること。そうして、ひとを憎まないこと。

なんの力もなくなった気がする。あらゆることが間違いだとかんじる。わたしはひとりで出歩いてはいけなかった。

我慢強ければ、自分を正しく評価して落第させていれば、居間にいられたのだろう。家族といっしょにいられただろう。殺されることもできただろう。
「今日文房具屋さんに行ってきたよ」と母に言えたらよかった、とおもって、居間にいって、座った。3分位して立って、部屋に帰った。弟がシュレッターを回しつづけている。