つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

7月6日土曜日

一昨日の午前中に、母と買い物に出掛けたとき、身体が斜めになったひとたちがいた。「午前中だったのか」とおもった。

想像と現実の差に戸惑ってしまう。頭の中では普通のようだが、現実の中で見る自分は、異様だ。なぜなのかわからない。驚いてしまう。なにかが激しく損なわれて、だれがどう見ても、それは元に戻らないものにかんじられる気がした。

昨日は母が遠くの書店に連れて行ってくれる。本がたくさんたくさんあって、うれしかった。はじめの一時間は怖くて、母の周りをまわっていたが、それから移動して、本を見てみたりした。するとたくさん本があって、うれしかった。以前は苦しくて、倒れないことが重要だった。昨日は自分なりに楽しめて、うれしかった。母に感謝している。

帰宅すると、「利息の3000円を引き出すべきだ」と父が言う。そうだった。父はきちんと伝えてくれる。母とすこし長い時間出掛けたあとは、この家庭の経済の窮状と、わたしの穀潰しを、伝えてくれる。困っている。わたしたちは困っている。生きていけないからだ。なぜならばわたしが穀潰しをするためだ。わたしが損なっている。
「貯金はいっせんもない」と父は言う。年金は少なくて、介護保険国保料が高すぎてしまう、わたしがいるからだ。
さまざまなことを考える。さまざまなふうに考える。考えている。考えている。一昨日ハローワークの求人を検索した。
いろいろなことがある。中卒のこと、勤務地のこと、世間体のこと、両親の両価する気持ちのこと、職種のこと、狭い部屋で二三人と働くか、広い部屋で走り回るか、資格のこと、時間のこと、わたしの見た目のこと、にじみでてしまう狂気のこと。
だれも決まっていないから、どこにも答えはない。現実に割合で感情を持つしかない。持たれた感情に割合で対処するしかない。
どこにも採用されないこと。具合がわるくなったらどうしたらいいのかわからないこと。薬漬けは困ってしまう。だから具合がわるくはならないことにしてほしい。

お金がなくて、家族が困っている。わたしが穀潰しをして、家族のお金を使って、いったいどういうことなのだろう。いったいどういうことなのだろう。

挟まれていく。二分するものが、わたしを挟んでいく。そんなに難しいことではない。現実はひとつしかない。そう、おもおうとする。現実はひとつしかない。それ以外はない。
わたしはいま「それ以外」にいる。

「家族に十分認められなくても我慢をして生きていってはどうか」
「認められないと死んでしまいます。殺されてしまうのです。命がなくなるのです」
「そんな子どものようなことを言うのはやめなさい。家族を愛しているのならば、支配されることも、支配されることで支配することもやめて、離れた場所で生きなさい。それが家族の幸いだとはおもわないか。穀潰しも終り、支配も終り、対等な、意味の遠い、ゆるやかな関係で満足することはできないのか」
「あまりにも要求が大きすぎます」
「要求ではない!」
「家族と離れて、ひとりで生きて、精神科には通わないで、正社員になって、他人とは付き合わないで、趣味は持たないで、自炊をして、貯金をして、あるいはそれらすべてをして家族と暮らして…。精神科に通って直りたかった。あの頃は直ると信じていたから。通って普通の人間の人生に戻りたかった。正社員になって、家族を支えたかった。通ってはならなくなった。いまは通わずになさなければならない。それができるのならばとっくにやっていただろうことをいまやらなければならない。でもなんのために? 家族に見捨てられて自分が壊れないために、社会に出て、そこで破壊されて、自我がなくなれはいいと考えている。奇跡的に壊れなければそれでよいし、壊れても驚かないとおもっている。なぜこんなふうでなければな
らないの? それは家族がお金に困っているから。わたしが穀潰し…」
「だれがなにを我慢できないのか」
「あなたになにがわかる」

わかるだろうね。わたしにわかるくらいだもの、ほかのだれにもわかるだろうね。

簡単に、口は、「たすけて」と言いそうになるから、縫い合わせて、息ができないくらい、縫い合わせて。

大丈夫。難しいことではない。わからないことではない。わかる。わかっているしこれからもわかる。働くこと。

「アルバイトでも仕方がないよ。一生懸命がんはったらいいよ。支えてあげるよ。恥ずかしくなんかないよ。がんばったらいいんだよ
そのひと言がほしかった。

両親は、わたしを精神科にぶちこんで、捨てなかった。家に置いてくれた。だから、恩返しをしなくちゃいけない。どうすればいいのかはわかっている。わかることだ。

昨日刺し子を買った。予算の外から買ったことに混乱した。けれど、買ったおかげで計算ができたことはよかった。ひとつき1枚で650円ほどすることがわかった。高すぎる気がする。

はやく正社員になりたい。
そうしたら終り。あとはもうなにもない。

ミランダ・ジュライをひとつ読む。頭がすーっとする。難しいことではないとおもう。簡単なこと、わかりやすいことだ。わたしは考えたり、悩んだり、決めたりしなくていい。
わたしは働く。ヤマガラが鳴いている。ピィーピィーピィー。ピィーピィーピィー。
曇天だ。

・午後母と外出をする
・夕食時父が「これだけが真実だ。これを見る」と言う。それは報道特集で、豪雨災害にだれも避難しなかった(行政はクソだという)話と、教師でボクサーだった息子が統合失調症と診断されて精神医療に殺された話だった。わたしはだんだん興奮してきた。どんどん待った。見たらいい。わたしたちはだれも精神医療に関わっていないのだから、大手を振って見て、わたしたちの正しさを見たらよかった。
・10秒ごとに考え直しているのは、安心したいからだろう。ずっと怖いから、苦しいから、それなのに怖いことも苦しいことも見捨てられることも嫌だから、安心できることを考えたいのだろう。
・母と外出した帰りに、朝母が「あるらしい」と言って教えてくれた古本市に行った。古本市は生まれて初めてだった。100円の本を買って、300円のソフトクリームを食べる。とてもしあわせだった。
・夕食時の報道特集の動悸のあと、ねこのテレビを見る。過食をした。そのあいだも10秒ごとに考える。正社員、アルバイト、清掃、事務…。もしも清掃などの仕事に就いて、体力が持たなかったら、「それみたことか。だから事務をやればよかったのだ。恩知らず」とおもわれるのだろう。ほんとうに確信や覚悟があるのならば、自分がおもうように生きたらいい。いまは認められなくても、これが最善のことであるとわかれば、そうしたらいい。そうできるだろう。
わたしにはなにもわからない。
だから、どうにもならない。
過食をしながら、「自分の責任を自分に返すこと」を考える。

どう生きたらゆるされるだろうか。
どう決めれば覚悟ができるのだろうか。

わたしは死にたくなく、同時に、家族を失いたくなかった。

理想の自分はどれか。

どこにも…

親戚の前で、頭の中で、何度も言った。「うちはお金がないから。年金も少なくて、国保料も介護保険代も払わなければならなくて、それなのに貯金がいっせんもない。だからわたしは穀潰しでいてはいけなかった」