つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

7月19日金曜日

身体から疲れがとれない。疲れ?

じゅうぶんに眠れないと、頭に靄がかかって、身体が(身体症状とはちがうふうに)重い。気持ちがぎりぎりになる。

過食に至る。

自分がいま死んでしまったことに気づいたみたいに、昨日は、ニュース映像から解離していた。
たぶん、ほかの会社や施設が同じ状況になった場合と変わらない他人の反応を、受け止めきれないでいた。「たとえば」と言うこともできない。なぜならば、わたしの経験はわたしにしかないからだ。

昨夜は夢を見なかった。
蚊がいて、目が覚めた。

昨夜見た夢を思い出す。

いくらでも薬を飲みたかった。
入院さえできた。
手帳だってなんだって持っただろう。
いくらでも、どうとでも。
社会の中で、普通のことをして、普通の振る舞いをして、普通の仕事をして、普通の時間に起きて眠り、普通の様相をするためには、わたしはなんだって、したかった。

わたしのどこが、まともではなかったのだろう。

帰り道に、田園をひとりで抜けて、野草が踏みつぶされた土地の金網ごしに、身体を引きずって歩く。ままならなかった。壊れそうだった。倒れそうだった。そのことが知られてしまいそうだった。

スカートのポケットに隠したナイフで、「ちょうどいい!」とおもって、休み時間のたびに、腕を切った。
そのナイフは、わたしが駅で殺されるときのために用意していた。殺されるとき、もしもなにひとつ反応ができなければ、まるでわたしが殺されることを望んだのだと両親に誤解されてしまう。そんなことには耐えられなかった。わたしは殺されたくなかった。だれにも。だから、刺し違えることはできなくても、ほんのかすり傷でも、できれば目玉の近くを、その小さなナイフで反撃しなければならない。毎日スカートに隠して、歩いた。

午後刺し子が終ってしまう。
気分がよくない。これは過食が原因!
そうだろうか。そんなに単純だろうか。
昨日は断捨離のテレビを両親が夢中で見ていた。父は声に出して繰り返しながらメモを取っていた。「過去3年使わなかったものは捨てる」聞きながら、やはりそれらの指示はすべてわたしに向けられていると考えて、さっそく頭の中で部屋を見て、しかし同時に、この考えかた、捉え方は、健全ではないのかな、とおもいあたる。あらゆることが、両親の相づちや、家具の気配や、ニュース映像や、天気、あらゆること、ものが、わたしに関連している。隠されたものがある。それらは意図であり、指示であり、見逃してはならない唯一の希望である。

睡眠がよくなくて、頭がよくない。天気もよくない。満月は、梅雨の中に隠されて、靄が降りた夜の道は怖かった。車が止まっていた。もちろん、わたしを殺すためだった。反対側を通ったけれど、わたしは通りすぎて、背を見せたから、死んでしまったし、並木も暗くて、何人でも、殺されてしまうだろう。わたしの過失だった。動かなければよかったのだから。

考えないことにしている。昨日ほどはうまくいっていない。とにかく考えない。なにも考えない。考えない。考えない。

『途上恐怖症』
途上にあって恐怖し、走ること。たどり着くとやはり恐怖し、ふたたび進み、恐怖し、走る。ゴールへの羨望や、人生への迷いが為すのではなく、ひたすら途上にある恐怖に突き動かされて、立ち止まっていられないこと。

昨日の夜タヌキを見た。たぶんタヌキだった、しっぽが太くて、柵の上を走っていったから。

マンゴープリンのパフェのようなものが半額になっていて、母と食べた。クリームなどが乗っていたが、あまり心配ではなかった。死んだような、これから死ぬような、人間はみなそういうものだった。

夜、両親といっしょに『夏目友人帳』を観る。DVDのレンタルがセールだったから。父も楽しんで観ていた、母も笑って観て、わたしもうれしかった。
百鬼夜行抄』のことを繰り返し考える。律が変わるのだ。そのことを考える。はじめのころ、律は妖怪と人間のあいだにいて、迷っていた。心細くしていて…人間でありたい、妖怪でありたい、間でありたい、そこで…孤独を抜け出そうとしていた。なにかを求めていた、求めなければならないと考えていた。どのように生きるにしても、どのように在るにしても、そこへ行かなければならない。
しかし、ずっとあとになると、律は、おなじ孤独を抱えて、はざまでもがいているひとに、すがるようにされたときに、答える、「孤独でしかありえない」と。そういうようなことを言う。
律は孤独を…悪いものとも、善いものとも、言わず、自分のことも、なにでもない、どこでもない、そういうものとして、しっかり受け止めたように見えた。
その律の変化は、たぶん、意図されたものではないだろう。作者の生きた時間が投影されたのかもしれない。ストーリーではないのだ。ただそうあるだけ。
わたしは律のことを考える。
たぶん、生きているあいだは考える。
この話が、とびきりわたしに意味があるわけでも、いちばんのお気に入りなわけでも、何度も読み返すわけでも、読み返す習慣があるわけでも、ない。それでも、なにか、ほとんど見えないものが、糸になって、わたしに絡み付いているのかもしれない。だから、生きていると、ときどきその糸が絡んで、つっぱったりして、わたしは律のことを考える。律の孤独なまなざしを考える。
今日も、つっぱって、わたしは転がって、律のまえで、顔をあげたのだ。

言語化は万能ではない。とくに、精神的なものについては、脆い。けれど、たとえばタヌキを見たとか、パフェのようなのを食べたことは、言葉にすると、わたしからそっと抜け出して、昇華される気がした。

夜の散歩を、さいきんは、ナプキンをつけずに行けている。失禁と下痢の心配を、いまはすこし、乗り越えている。

わたしは子どものころから、途中にいることに耐えられなかったのだろう。帰り道の途中も、行き道の途中も、作業の途中も、人生の途中も、たまらなく苦しくなって、走りに走り、早く早く、たどり着かなければ、途中の、ただひろい、孤独な場所で、倒れてしまう気がした。たどり着いても、またそれははじまりだから、永遠に、おびえつづけ、走りつづけるしかなかった。恐怖しかなかった。ずっと泣きつづけてきたのは、怖かったからだった。
散歩の途中。
勉強の途中。
途中であることの激しい恐怖と、焦燥。また走り出す。どこまでも、安心できなくて、帰ろう、帰ろう、走る。