つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

7月14日日曜日

眠気がある。曇天の朝。
ご飯が食べられることがうれしい。安心して、食べてみることができることがうれしい。

確認しても、確認し間違えて、また…
カーテンの裏も、ベッドのしたも、パンツの内側も、クローゼットの中、タンスと壁のありえないほど狭い隙間…

殺されて、殺されて、殺されている。

「勉強をして身体をならして春には前職に復帰して、働けなければ辞めて、また1年ほど死んだようにすごして、今度こそは事務職を諦めて、別の仕事をはじめればいい」と考えて、ぞっとした。はんぶんほっとした。一生こんなふうに繰り返すのだろうか。

1分1秒も無駄にできない。2度と間違えてはならない。

冷静に見てみると、前職は2度働いた。たった2度だろうか。あと1度だけ挑んでみてもよいのではないか。半年が惜しい。就職することを信じきれないから、そのための勉強に時間と気持ちと資金をつかう半年間が惜しくて、わからなくなる。たった2度でも決定的な2度だったのではないか。前回も、「これが最後だ」とおもったのではないか。
わからない。
正しいことをしたい。

今日は…

どちらでもよいのだ。覚悟を決めて、そのひとつの方向の前に進みたい。人生を決めたい。そんなことができるのだろうか。わたしも人間である!

わたしには奴隷にされるだけの理由、ごみのように扱われるだけの理由、人間と見なされないだけの理由がある。学校を卒業していないし、精神的にも正常範囲にないし、それらを克服していない。だから、わたしには使い捨てられる理由も、笑われる理由も、ある。怒鳴られる理由も、陰口を言われる理由も、自殺すればいいのにと願われる理由もある
だから、わたしはずっとそのように生きてきた。ずっとだ。そのように扱われることを前提として、わたしそのものの1部むしろすべてであるとおもって、生きてきた。どこにいても顔をあげられなかった。恥ずかしくて、悲しかった。優しくしてほしいとは言えなかった。ほかのひととおなじように扱ってほしいとは願えなかった。そのような権利はとっくに喪失していた。
たぶん、乗り越えたほうがよい。
わたしが実際にどれだけ…それでも、生きたいと言って、奴隷ではないと胸を張って、努力をしたい、わたしはだれの玩具でもない、と自分自身で信じねばならない。

どのような仕事でもよいとおもうのは、なげやりだからではない。仕事の種類、社会的な意味を越えて、わたしには大事におもえるものがある。自分がどのように生きていくのかということだ。
わたしが決断したいのは仕事の種類ではない。わたしの生き方を決めたいのだ。

言葉にできることは限られている。1パーセントもないだろう。かろうじて言葉にできることはかろうじてわかっている、わかっているとおもえそうなことだけだ。ほとんどのことはわからなくて、言葉にはならない。感覚としてもわからない。わたしはわたしにわからない。こうして言葉にして、言葉は無惨だけれど、言葉にすると、なぜだろう、言葉にならないものが、言葉にはならないままかもしれないけれど、すこしだけ、わたしに近づく。たとえば優しさや、感謝や、やわらかい感覚。未来。
だから、これらの言葉とともに、言葉になされない100パーセントほどの優しいわたしがある。幸せを感じているわたしがある。前向きになろうとしている、地に足をつけているわたしがある。

自暴自棄にならない。もう子どもはやめよう。精神的に成熟したい。いまの時点で可能なところまで拡がりたい。
地に足をつけて生きていきたい。
そのために現実の毎日をどう生きたらよいのかを決めたい。