つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

これがわたし

生きることをあきらめられない。
だが、あきらめなければならないだろう。

これがわたし。
そう、言えるようになるまでの、日々をいま生きている。




ーーこれがわたし。これがわたしというフィクション。わたしはあなたの身体に宿りたい。あなたの言葉によって他者に語り継がれたい。/伊藤計劃

 

8月14日水曜日

姉が迷子になる夢を見る。

白猫、白猫、黒猫、パンダ猫、妹猫、クロネコ

昨日はお盆の入りだった。

「1から100まであれば、100すべてを知り、身につけている

ぶる!

昨夜はいよいよアマゾンを注文しようとしてまたまたまたまたまたまたまた挫折をする。そして心底、注文しなくてよかった、とほっとする。アマゾン恐怖症を発病している。具合までややおかしくなる。朝目が覚めると、注文しようかな、とまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたおもう。書店にあれば買えただろう。問題は、「アマゾン」というところ(についてのわたし)にある。
朝はこんなふうにおもったのだ。「読むことは生きることだ、読むことは努力だ、読むことはわたしには意味がある、わたしを変える、成長させる、つよくさせる。読まないことはそれら、つまりわたしの生命や人生の責任から免れることだ、逃げているだけだ」

猫が消える。雨雲レーダー。

昨夜肉体の調子がすこしよくない。怖い。怖いからよくなくなるし、よくなくなると、さらに怖い。
怖い。家が流されるかもしれない。土砂に押し潰されるかもしれない。猫は死んで、わたしたちも死んで、はぴのお墓がなくなるかもしれない。みんな流されるかもしれない
雨音を想像して怖い。轟音。屋根を打ち破るような轟音。吹き飛ばされていく。引き剥がされていく。飛んで、ぶつかり、壊す。

父が昨夜また、「資格さえあればどこにでも一生働ける、食うに困らない」と言う。ちょっと、こう言いたかった、「父さん、わたしを見てよ。資格があればいいっていう父さんの言葉を信じて、このざまだよ。資格さえあればいいわけじゃない、働けないといけないんだよ、働くには、殺さず殺されず働きつづけるには、資格よりも、そのひと自体の体力がひつようだよ。資格なんかなくたって、元気いっぱいなひとは働けるし、いくら資格があったって、首吊ったら働けないよ。それにね、ひとつの資格をとるってことは、つぶしがきかないことでもあるの。一生ひとつの業界にしか仕事を見つけられない。父さんは、大学なんて金持ちが遊びに行くところだ、って言いつづけてきたよね。自分がそうだったからでしょう。でもね、わ
たしね、大学に行きたかったよ。勉強をしに行きたかったし、学歴も欲しかったよ。資格たくさんとったけど、その学費も父さんが出してくれたから感謝しているし負い目もあるから、資格をいかさなきゃっておもっているけど、でも、ときどきおもってきたよ。ああ、大学に通信でも夜学でも通って卒業できてたら、『高卒以上』の求人に応募できたのにな、って。清掃の仕事も、100円ショップの仕事も、スーパーのレジもわたしには応募できなかったよ。資格はほかの業種ではなんの役にも立たなかった。それにね、資格とっててもね、『中卒』だからって、めちゃくちゃにこき下ろされて、バラすぞって脅されたこともあるよ。父さん、父さんがまちがっているわけじゃない。ただ、現実は、経験したことのない他人が頭で考え
るよりも、複雑なんだよ」

気分がよくない。すこし吐き気がある。しょんぼりする。しかし、食べたら元気になるかもしれない。こんなふうに考えられるなんて、自分でも驚く。
気圧と恐怖とプレッシャーと疲れ。そう、しんどくてもおかしくないよ。

今日はどうにも具合がよくない。身体に力が入らない。

・他人を轢き殺す
・ふいに心臓が止まる
・大地震が起きる
・土砂崩れが起きる
・罪を着せられる
・すれちがいざまにめった刺しにされる
・見捨てられる
・憎悪される
・間違える
・他人が殺しにくる
・食べ物に毒が入っている
・他人が侵入している
・盗視される
・話される
・仔猫が死んでいる
・はぴの墓が壊れる
・人間が発狂する
熱中症になる

・犯されている
・拷問されている
・昼食を爆撃されている
・冬の森で道に迷っている
・熊に殴られている
・家族に殴られている
・他人に殺されている
・毒をもられている
・責任をかぶせられている
・ワクチンがなくて死んでいる
・餓死している
・とどに押し潰されている
・穴に落ちている
・閉じ込められている
・首を吊っている
・見捨てられている
・薬漬けになっている
・轢き殺されている
・吐いている
・嫌われている
・口べらしにあっている
・出稼ぎ先で半身麻痺になっている
海上を漂流している
・人肉を食べるしかなくなっている
・差別されている
・蹴られている
・焼けている
・ちぎられている
・乗せられている
・買われている
・引き離されている
・折られている

今日はあまり身体がよくない。心もくったりしている。そういう日

白猫が雨に濡れている。

・わたしが死ぬ
・家族が死ぬ
・わたしが病気になる
・家族が病気になる
・わたしが家族に見捨てられる
・わたしが家族に憎まれる
・わたしが殺される
・わたしが殺す
・わたしの頭がよくなくなる
・家族の頭がよくなくなる
・お金がなくなる

書店で本を買おうかと考えていたが、買えなかった。浪費しないからではない。買うことができなかった。

怖くなってきてしまった。

天気が怖い。

家族が出掛けてしまう。ひとりぽっち。お昼寝をする。天気恐怖症がすこし落ち着いた。

グレーと白の猫がいる。

わたしはどうしても、決めて、無駄ではなく、間違いでもなく、真っ直ぐ、生きたい、と考えてしまう。現実を無視できない。恐怖も不安も無視できない。殺されはしないとおもわなければとても生きてはいけないから、わたしは生きてはいけなかった。殺したくなければ殺さないですむ、と考えられなければ、ひとは生きられない。

現実をはんぶんくらいしか見ないこと。それができない。周りからは、だから非現実的に見えるだろう。箪笥の中に殺人者が入り込んでいるかもしれない現実は見てはならないのだ。

父は、動いていなければ無料だとかんじている。自分はなにひとつ費用をようさないのに、家族はみな出費はかりしている。しかし、じっとしていても、なにもしていないつもりでも、無料で生きてはいない。ご飯だって食べているし、家で眠ることもしている。目に見えないだけ、レジに並びはしないだけで、みな費用だ。
じっとして、見えない費用を重ねている。
動けばそれだけ経済も動いてしまうけれど、大きく見たら、たいたいになることもある。
母はそのへんが上手だ。必要なものを購入する覚悟と、生きる覚悟が、しっかり支えあっている。

遺伝子は凝縮されていく。親よりも子どもは狂っている。
狂気の領域と方向性はちがっていたとしても。

境界例、自閉、統失。

生きたいとおもう。わたしはずっと生きたかったから、すぐ生きたくなってしまう。生きられるように全力を尽くしたい。生きられる生き方をしたい。つまり、就職したい。眠りたい。食べたい。会話をしたい。暮らしたい。

そういう必死なわたしと、折り合いがつかない。
生きることをあきらめて、今日1日を今日1日分生きたい。20年後に死なないですむように生きるのではなくて。生きられたらいいにきまっている。しかしそれは、わたしにできることだろうか。できる、とわたしは応えるだろう。これまでもそうして生きてきた

これまで生きてきたように生きてもかまわない。

ちがうように生きてもかまわない。

わたしはどのように考えたらいいだろう。
わからない。

ふつうのことをしてほしいだけなのだろう。ふつうに働き、狂わないで、ふつうに振る舞ってほしいだけなのだろう。
耐えたくないのだ。変化にも、過程にも。
完璧なものだけが求められている。

精神病になってでもいい、就職して働きたい、ふつうのひとのように振る舞いたい。その気持ちから逃げられない。

8月13日火曜日

夢を見る。ひとつは、母と父と役所にいる。本棚を見ている。老人がこちらを見ている。わたしは1冊をもって、両親について部屋を出る。スロープを歩きながら、鞄に入れている書類のことを思い出す。母に言ってみると、さっそく受付に向かうことになる。受付には何人もの男がいる。そのうちのひとり、無表情だがしっかりした男が、場所を教えてくれる。わたしたちはそちらへ向かうが、すぐにべつの、へらへらと笑う男が、立ち塞がり、「ちがう、あちらだ」と情報を訂正する。わたしはすこし、はじめの無表情な男を気の毒におもう。目の前で、こんなふうに大声で大きな身ぶりで、訂正されてしまって。両親と言われた場所へ向かう。閉館時間間際である。わたしは書類を取り出す。すると、まだなにも記入していなかった
ことが判明する。どきどきしながら、母に書類をちらちら見せながら、「やっぱり今日じゃなくてもいい」と言う。しかし母はぐんぐん歩いていく。「書き方は教えてもらえばいい」父と母がときおり話し合いながら前を歩いていく。わたしはついていきながら、やはり不安になり、「まだ出さなくてもいい、もうすこしあとでもいい」と言うが、聞き入れられない。ふたりは時間内に部署にたどり着くことに集中している。わたしはとても不安になる。まだ働きはじめてもいないのに、この書類を出してしまうのは早すぎる。もしかするとすぐに働くことをやめてしまうかもしれない。書類を出していなければ、すぐにやめても難しくないが、出してしまったら、また出さなければならなくなる。書類なしの空白期間が生まれてしまう。
だが、書類のことを言い出したのは自分である。あんなふうに、とっさに言わなければよかった。慌てることはなかったのだ。後悔するが、どうしようもない。
つぎつぎと夢を見る。不安なのだろう。今日からお盆だ。
はぴが死んでしまって、なにかが変わったのかもしれない。みな死んでしまう、という焦りがある。何十年先まで考えなければならないのか。それとも、現実はなにひとつ変わらずに、わたしだけが1年後にぽつりと死ぬ、と想定すればいいのか。わたしは子どものころから、家族を養うことだけを考えてきた。その世界観は単純だった。働く。お金を稼ぐ。家族の役に立つ。家族を支える。看取る。ひとり残される。しかし、現実はどうか。両親よりもへろへろのわたし。まったくの無職なわたし。出掛けることも簡単ではないわたし。そこそこ元気な両親。逆転している。現実がまっ逆さまだ。やればできる、やるべきことをわたしはできる、とおもっていたから、昔は心配しなかった。乗り物の運転も、家事も、親の介護も、通院介
助も、なんでも、やるべきことはできる。
いまわたしは、未来をどんなふうに考えたらいいのかわからない。両親はいつまでも元気だと考えればいいのか。すぐにでも死んでしまうかもしれないと考えればいいのか。わたしは曖昧には生きられない。
わたしは生きるのか。

現実は単純ではない。要素があって、原因があって…わたしはそれを知らなかったから、なにをしても、なにが起きても、自分のまちがいだった。わたしが選びまちがったから、考えまちがえたからだ、天罰だ、ふさわしいだけの罰を受けている
現実は単純ではない。そのことを捉えること。
そうでなければ、身動きがとれない。

意外にも、わたしは食べ物を残せない。

むずかしく、考えないこと。

感謝してもしても足りないどうしたらいい。

あたりまえみたいに生きたいね。
あたりまえみたいに生きたい。

わたしが、「生きる」って言ったら、どうなってしまうのだろう。「許さない、認めない」と言われたら、わたしはどんな顔をするのか。

はぴは帰ってきているだろうか。お盆だから。お姉さんポメラニアンといっしょに、帰ってきているよね?
わたしは幽霊を信じない。神さまも信じない。それなのに、伊藤計画や笹井宏之については、天国があって、彼らが天国にいると、彼らの大切なひと、彼らが大切なひとが、信じられたらいい、とおもってきた。彼らにだけは特別に、しっかりと、好きな形の信仰があっていい、そうではないか。
はぴのことを考えるとき、わたしはすこし、おかしかかんじになる。幽霊も神さまも知らないはずなのに、はぴを見つけたがっている。泣いたりする。毎晩お墓に行って、「はぴ」、声をかけている。おやすみ、はぴ。おやすみ。
今朝は顔を洗いながら、「今日はお盆だから、はぴはもう帰ってきているよね」とおもった。わたしの足元にはぴの背中があるみたい。まだ朝早くて、はぴも、みんなとおなじ、まだ眠たくて、ゆっくり歩いている。

もしかしたら疲れて母はメイクをしないかもしれない。母がしないのに、わたしがするって、何様なのか!

ぽつぽつ。
わたしにもできることはあるかもしれない。あるとおもう。人生はなにもかも手に入れる場所ではない。ふつうのひと。ふつうのひと。わたしはわからない。

ひとり暮らしをすると必要な予算分をないものとして貯金をして、わたしにできることをできること。ほかのひとにはできなくても、わたしにできること。
なにかをあきらめなさい。欲張りすぎている。

わたしにできること。
・仏壇のお掃除
・お墓参りの道案内
・たぶんすこしの家事
・たぶんすこしのお手伝い

8月12日月曜日

昨夜は寝つけない。深呼吸をする。数日間、深呼吸をしていなかった。悪夢を見つづける。

朝は涼しくなってきた。

頭の上に落ちてくるかもしれないピアノの下で暮らすこと。生きるということ。

昨日母が、「そういえばアマゾンはどうなったのか」と訊く。一週間ほど前に、わたしが注文していいか訊いていた。頼んでいないと答えると、母は複雑な表情をした。うんざりしたような、あきらめたような、疲れたような、悲しいような表情をした。わたしが回避していることに気づいているのかもしれない。わたしが怯えていることに疲れたのかもしない。
本を買わないことは、よい節約を意味するばかりではない。人生を回避すること、時間を無視すること、逃げること、向き合わないこと、見ないこと、知らないこと、生きないこと、そんなことを意味もする。とくにわたしの場合はそうだ。本をアマゾンで買うということは、取り返しのつかないこと。わたしはそれが怖くて、注文できなかった。

早めに自殺してほしい、あたりさわりなく暮らしてほしい、それは当然の願いだろう。
わたしのふとしたひと言で、「え、あんた自殺してくれるんじゃなかったの? 生きてしまうつもりなの?」とおもわれるのではないか。
・自殺する
・すこし働きながら実家で暮らして、両親がいなくなったらあとは、はじめてひとり暮らしをするか、自殺をする
・すこし働きながらひとり暮らしをして、両親が元気なうちに、ひとりで生きることを学んでおく

白猫がいっぴき、左を向いて歩いていく。白猫がもういっぴき、左を向いて歩いていく。

生きたいものだから、わたしはずっと、生きたかったものだから、どのように考えればいいのかわからない。
昨夜は結婚について考える。どんなにすばらしい結婚だとしても(そんなことありえるのか?)、結婚という変化に、行事に、気圧に、わたしも、わたしの家族も、うまく耐えられないだろう。ましてや、すばらしくなどない苦しまぎれの結婚や、想定しているよりも破綻が激しい結婚などとなれば、死人が出る。いくらなんでも、いまさらわたしの結婚事情で、両親をへとへとにさせるなんて、ひどすぎる。もうこれ以上へとへとにするなんて!
両親も、穀潰しのわたしが結婚していなくなれば喜ぶだろう。しかし、現実はそうなめらかに進みはしない。希望はだれでもいくらでももつが、現実に叶うにはそうとうの体力がひつようとされる。
1年くらい前か、結婚指輪を買いたいと考えていた。つまり、他人の男性と生涯結婚しないことを誓い、わたしがわたしと結婚するための指輪だ。安いものでいい。そのへんのおもちゃでいい。それを買って、わたしはわたしと誓いあいたかった。

生きることも怖ければ、見捨てられることも怖い、働くことも怖い、息をすることも怖い、わたしであることも怖い、食べることも、歩くことも、見ることも、聞くことも、怖い。
怖くない人生はない。受容するしかない。

わたしのミラクルクエッション…

音がする。

テキストをひらいているところをぜったいに家族に見られたくないのはなぜだろう。ひっしになって隠してしまう。昨日も、部屋にきてくれた母から、それはもうひっしになって隠した。へんなの。怖いのだろう。

あたらしいスリッパに馴染んできた。

白猫がいない。

できるべきこと、するべきこと。

努力すれば死なずにすむと考えるとき、なにかが歪んでいる。努力すれば病気にならず、努力すれば失業せず、努力すれば愛されて愛することができる、努力すれば…死なずにすむ。永遠に、殺されない。

働いてもいないのにこんなに身体がぎりぎりで、どうすればよいのだろう。努力してふつうのひとに…

ふつうの人間になりたい。
働けて、暮らせて、眠れて、食べることができて…

日にいちどは必ず倒れる三角の物干し竿を父が作ってから、顔を拭くタオルも、肌布団も、地面に落ちている。

昨日の夜くらいから、今日は、なんとかやっていけるかな、難しく考えないで、ふつうにすることとして、ふつうにやれるかな、とおもう。

命がけで生きている。
意味だけを生きている。価値だけを生きている。
わたしは考えすぎた、考えなさすぎた。
ひとは、自分にないものを求める、自分に不向きなことをする、苦しみだけが当然だとかんじる。
わからない。他人はどんなふうに生きているのだろう。どうして自分を守れるのだろう。なぜ笑えるのだろう。

わたしは、他人のようにはなれなくてもいい。趣味はなくていいし、人生の中で楽しいことや、嬉しいことや、幸せなことは、…なくていいわけじゃないけれど、たくさんじゃなくていい。好きな音楽を聴けなくてもいいし、外食に繰り出さなくていい、おしゃれな、お気に入りの服を手に入れられなくていい、家具はちぐはぐでいい、テレビを見られなくても、ネットを見られなくても、海を見に行けなくても、お菓子を作れなくてもいい、ペットと暮らせなくていい、映画を観に行けなくていい、旅行に行けなくていい、習い事も、ジムもしない、友だちも恋人もない、大学に通えなくていい…。
だけど、わたしが望む生命も、奇跡だ。

身体の力を抜きたい。思考を止めたい。

板挟みになっている。だれもが自分の思考の板挟みになり、他人の思考の板挟みになる。パーセンテージだから。ひとは、固形物ではない。

わたしが望むものも、望んではならないほどのものだとわかっている。

すこし頭がよくない。

地面に落ちたタオルケットをじっと見ていたら、母が洗い直してくれることになった。気持ちが苦しい。

田舎に移住をして無農薬野菜を作っているひとをテレビ画面に見て、父が、「エリート」と言う。いままで気づかなかったが、父には強烈なエリートコンプレックスがあるのだろう。自分もエリートになり、大金を稼ぎ、金の心配などせずに、やりたいことをやって、楽しく生きることもできたはずなのに、自分以外のもののせいでそれが叶わなかったのだ。
金がない、金がない、明日にも食うに困る。そう、聞きつづけて、成長してきた。恐怖と、不安と、努力のひつよう。

わたしがもしも違っていれば、父を反駁するように、貧乏で、金もものも持たずに、それでも心や暮らすの幸せを見いだしていたのかもしれない。

もう心配したり、考えたりしても、しかたがない。将来は決まったとおもって、最後の自由時間だと割りきって、安心して生きないか
なにかをするから、しないから、生存を許される、と考えることはやめよう。じっとしていれば金がかからないとかんじるのは、ただの遺伝と学習だ。現実はちがう。

蝉がないている。

母が、「飲んでみようよ」と言ってくれたおかげで、セブンイレブンのカフェラテが安全に飲めるようになった。安全に飲むことができるものがあること。
他人から見れば、おそろしく低速な人生だろう。それでも、わたしは変わっている。これからも変わるだろう。自分の力ひとつで成し遂げたことなどひとつもない。周りに支えられてここまでこられた

なんだか気分がよくない。とおもっていたら、今日はとても暑いのだった。

深爪をやめて、2週間に1度爪を切るようにする。明日が爪を切る日だ。伸びた爪は違和感がある。生きているかんじがする。自分の身体の変化を自分の目で見る。

生きることは、「頭の上に落ちてくるピアノの下で暮らすこと」なのだと昨夜気づいて、精神的衝撃を受ける。そうか。生きるって、そういうことか。

なにひとつ変われていない気がしていたが、朝ごはんをまえよりも食べられるようになった。
夜も、あきらめずに眠るようになった。

なんだかしんどい。なにか食べるか、と訊くと、「歯を磨かなきゃならなくなる」と答えられる。
想像するだけならば、好きな食器を使えるとか、喪服を買えるとか、野花を牛乳瓶に生けて、かびだらけのマットレスはやめて、毎朝白湯を飲める。現実にはどうか。自分のために食事を作る、などということができるのだろうか。自分が、自分ひとりが圧倒的に生きて、存在している空間で、わたしはどのように呼吸ができるというのだろう。わたしはわたしに殺されはしないか。

ふつうのひとのふりをするのだ。ふつうに働いて、ふつうに暮らして、頭の具合がおかしくなれば、「まさかわたしが!」と驚く。
なぜ?

取り返しのつかない。
働いて、暮らして…捨てられている…そこで倒れたら、2度と、2度と、ふつうに生きるひとの現実には戻れない。
閉鎖病棟、よだれ、ケアハウス、生活保護

ふつうのひとのふりをすること。

自分の限界を越えないこと。
越えないこと?

途方もない。けれど、ふつうのふりをすること。

「ここにいていいよ、家事を手伝って、すこし働けたらいいね」

わたしは役に立たない。わたしは家族に手伝いを求められていない。迷惑をかけないことを、自殺を、穀潰しをやめることを、願われている。だがなんて幸福なことだろう。家族はわたしに我慢してくれている。
さあ、覚悟を決めよう、生きていこう。
家族に恩返しがしたい。

居間にいたい。家族とすごしたい。だけどそれは許されない。ここは父の場だ。父のもの。父だけが専有する。母を自分だけのものにする時間が、はじまり、これから終りまでつづく。

「わたしの考え方はまちがっている」とおもう。おもいながら、歩く。満ちていく月が今日もまぶしく光っている。赤ん坊が、父親に抱かれて、足がぶらぶら揺れている。父親とわたしは、視線を交互に交わす。「こんばんは」
まちがっている。ここで生きるのだ。できることはあるだろう。運転とか、できるようになれば、よい。家族の役にたつことも、あるかもしれない。生きているあいだに心配と費用をかけないように、努めるのだ。
そうだ、そうするべきだ、とおもい、それからふと想像する。父とふたりで暮らすことになったらどうなるか。
命が100あっても足りない。わたしは母の代わりにはなれない。それとも、切羽つまればなれるか。
介護や手伝いは想像してきたが、元気いっぱいな父と(そして弟と姉と)暮らすという事態は、想像……
両親はいまは元気だが、ずっと元気なわけではないかもしれない。もちろんわたしのほうが元気がなくなることもあるけれど。近所のおばあさん(わたしに子宮頸がんワクチンをすすめてくれて、とてもうれしかった。一人前の人間扱いされたみたいで)は、おじいさんが死んだあとも、ひとりで暮らしている。娘が一時期同居したが、うまくいかなかった。
病気の両親を介護すること。残された元気な家族と暮らすこと。
わたしは、もしもひとり暮らしをできたとしても、だから家族と離ればなれになって、他人になるのは想像していない。家族がわたしを大嫌いになってしまったら、仕方がないけれど、そうでないならば、近くで暮らしたいし、支えたいし、支えられたい。わたしがひとり暮らしのことを考えたりするのは、両親が元気なうちに甘えたいからだ。ひとり暮らしをアドバイスしてもらったり、支えてもらったり、たまには逃げ帰らせてもらいたいからだ。両親がいなくなってから、うまれてはじめてひとり暮らしをすることになりたくはなくて。
へんなかんじ。
わたしは、歩きながら、考えながら、強くなりたいとおもう。ひとりで暮らす強さも、家族の役にたつ強さも、ほしがっている。
ほしがりすぎだろうか。
いつか、母に訊いてみたい。「わたしはひとり暮らしをするべきかな。それとも、そうしないほうがいいかな」
訊きたい。仕事に通って。

わからない。わからない。

わたしは、父が言うように、努力が足りなかったのだろうか。

8月11日日曜日

昨夜は、「わたしの命の価値は金儲けにしかない。そのように育ってしまった。金を稼ぐことにしか意味がない」と思いあたる。わたしの命の意味。そうなってしまった。ほかになかった。わたしの心には意味がなかった。よろこびはない。悲しみもない。愛情もない。成長も挫折もない。金儲けだけが求められ、わたしはわたしにプログラムされてしまった。ロボットのように育ってしまった。
わたしはいまでもプログラムだ。

「努力をしていないからだ、がんばっていないからだ」

・生きることをあきらめる
・生きることを受け入れる

「できることなのにしていないからだ、バイタリティをもたないからだ」

父の言葉はわたしの言葉になった。

昨日、わかりやすくしたくて、メモを書いてみた。はじめはよかった。わかりやすくなったし、おかしなかんじもなかった。しかし、金額を調べて書きはじめると、おかしくなった。高級すぎる。
わたしのなかで、「取り返しはつかない。一生顔をあげられない」という確信と、「わたしにもできるはずだ。おかしいことじゃない」という意見が、交ざりあわずにある。引き裂かれていく。見捨てられたくない。だがそのためには離れなければならない。人並みに生きるためにはタフでなければならない。しかしそのためには執着してはいけない。いつ死んでもかわまないと言わなければならない。生きるために生きるためには死なねばならない。

わたしの望み。
・身体がやすらぐこと。くたっとできること。

意味のない人生は生きられない。意味は金儲けにある。物心つくよりもおそらくは前から、わたしが発生するよりもさらに前から、家族は困窮していた。お金がない。お金がない。それしかなかった。家族と暮らすためには金を稼ぐしかなかった。生きるためには金を稼ぐものになるしかなかった。ほかに意味はなかった。金がない金がない金がない。
いまならばわかることも、子どものころにはわからなかった。路頭に迷うのだとおもっていた。わたしが生きているために、金がかかるために、家のローンがあるために、食べるために、金が使われてしまい、金がなくなってしまい、そして金がない金がない金がない。いまならばたぶんすこしはわかる。両親は路頭には迷わなかったし、わたしも精神科にぶちこまれて世帯分離されて障害年金と生活保護と過剰投与のもとでよだれをたらしながら生きることはなかった。
父は地のものだったから、家族がいるせいでお金に困る、という現実に押し潰されたのだろう。耐えられなかったのだろう。苦しみしか、憎しみしか、憤りしかなかったのだろう。
ひとはなぜひとを愛せるのだろう。

わたしの気持ち次第だ。金儲けプログラムを解除するか、ロボットでありつづけるか。気持ち次第だ。

「家族を養う」「家族に見捨てられない」以外の意味があるだろうか。

昨日母があたらしいスリッパを下ろしてくれる。うれしい。

マットレスの裏を消毒して、部屋の隅や、窓のレールを拭く。母がカーテンを洗ってくれる。汗だくになる。冷静になって麦茶を飲むと、気分が改善する。ごくごくと飲む。部屋の掃除をして、位置を変える。わがままなこと、高級なこと、分不相応なことをしている気分になり、落ち着かなくなる。もとに戻す。あたらしい位置にすることで、取り返しのつかない人生を歩むことになる気がした。もとに戻すことは、よいことか、よいことではないか。

年にいちどの心臓を危機にさらす。心臓だけではない、血管も骨もなにもかも、わたしという肉体が隅々まで共振する。心臓が破れてしまいそうで、身体をまるめる。しかし、防ぐことはできない。突き抜けてくる。掃除機の低周波にすら立ち向かえない身体が爆発してもおかしくない。生きて動いている心臓に電気ショックをかけつづけられている、そんな想像をする。
年にいちど、母と出掛けて、心臓を破裂させかける。とてつもないショック療法ではあるが、ここまでの肉体的、直接的、影響を受けたあとは、すこしたくましくなる、そんな気がする。
ふしぎなことに、パニックと、共振と、不整脈は、どれも異なる感覚であって、心臓という器官にしか共通点はない。それでも、なんとなく、たくましくなったか。

「踊ったり、野球をしたりして、楽しんでいるほうがいい。人間は煽動されてしまうものだ。ミサイルを打ったり、不買運動をするよりも、野球をして、楽しんでいるほうがきっといい」

今日は、「わたしにはできないだろう、たどり着けないだろう」とおもいつづける。どれほどそうあればいい、そうありたい、そうあるべきだとわかっていても、願っても、祈っても、わたしは生きられないだろう。

遊んで暮らすわけにはいかない。

8月10日土曜日

昨夜は寝つけない。カフェインか。食べすぎていた。
朝目が覚めて、お腹をさする。昨夜は深呼吸をしたけれど、頭の中は考えて考えて、考えていた。金曜日の夜はたいてい疲れが出る。ほっとするのかもしれない。食べすぎるし、テレビを見てしまう。
父がすっかり機嫌を損ねている。わたしよ、テレビを見ないでくれ
テレビを見る時間、居間にいる時間、家族といる時間が、ほしくなる。

考える、考える。春から働けることを考える。あれ、弟の目覚ましがなっている。こんな早い朝に!

考えて、メモをしたい。わかりやすくする。

今日はすこししんどい。熱ぽい。身体がお疲れだ。細胞がお疲れ。
エクセルのメモをノートに書き写す。
今日はまったくお疲れだ。無理もないでしょう。いろいろあったもの。それに気圧が忙しい。すこし休んだほうがいい。
半月がまぶしく光っている。夜。あれはなぜだろう。なぜだろう。夜は赤い光が走る。銀河鉄道ように、カーテンレールのすき間から射し込むヘッドライトが、がたんごとん、走っていく。

エエト…やはりすこししんどいね。
お疲れだ。

来春までのこと。
・月一冊の知る読書
・多読してよい(最後かもしれない)
・資格の勉強
・これまでのように図書館などに出掛ける
・12月アルバイト
・詩を書く(できればまとめる)
・夜の散歩をする
・予算を整理する
・お皿を洗う
・自室を掃除する

来春からのこと。
・働く
・働いてみて、かんじてみる、できそうか否か
・働くことはできそうだが職務内容は難しいなら、つぎの年度から勉強をする。最後の年はできれば、ひとり暮らしをする。そして数年後に転職するときには、就職またはフルタイムで働く。
・職務内容もなんとかできそうなら、資格の勉強と知る読書をして、就職する
・フルタイムでは働けないとかんじたら、月8万の収入を得て、実家で暮らす
・働けないとかんじたら、どうしようか
・1年間60万円貯める
・読書は精読をする

ないこと。
・無職
・福祉

お盆がはじまる。母と午前中のうちに買い物に行く。とつぜん、パニック発作が起こる。とくべつ緊張していたわけではない。降って湧いたように起こる。緊張する心臓と、パニック発作を起こして心臓はちがう。圧倒的にちがう。
しばらくして、自分の存在を消していることに気づいた。わたしはそのようにして対処していた。

祭りがはじまる。ニュース映像を見ながら、そして、毎年と変わらず、罵倒する父の声を聞きながら、「わたしはいったいなにをして生きてきたのだろう」とふいに考えてしまう。わたしは、父の好きではないもの、ばかなことだと判断される行為、愚か者だと言われる生き方を、避けてきた。部活をしなかった。友だちをもたなかった。大学に行かなかった。音楽を聞かなかった。ハンバーガーを食べなかった。バラエティ番組を見なかった。化粧をしなかった。踊らなかった。そうして、父の傘下に、入ろうとした。いちどでも入れたか?
他人のたのしみを奪うひとがいることを、父以外にもいるということを、知ったのは最近だ。小説に書いてあった。感動して観る映画すべてを、隣でこき下ろす。同じだ!
わたしはいったいなにをしてきたのだろう。わたしの人生ってなんだったのだろう。父に認められたくて、母に捨てられたくなくて、それだけだった。就職して、一生そこで働いて、両親と家族を養う。そのためにしか、なにも、考えてこなかった。なにも。
わたしがもしも他人ならば、ばかなことをしてきたね、と笑えただろう。しかしわたしは、わたしにだけは他人ではない。憐れむことも、憎むことも、あざ笑うことも、考えているほどは、うまくできていないだろう。

疲れている。発作が起きたことは悲しいことだ。それでいっぺんにつぶれてはいない。感謝すべきだろう。

メモを書きたい。わかりやすくしたい。なにも考えなくていいくらい。

わたしはなにをしているのだろう。
そんなふうに戸惑って、考えて、思考を応え…

じゅうぶん生きている。
ここでいいよ。

わからない。
わからない。

寝不足もある。疲れもある。緊張もある。頭が落ち着いていない。

強烈な立ちくらみ。
無為に過ごしてもいいんだよ。わたしは時間を生きすぎる。

8月9日金曜日

昨日雑貨屋でかわいい猫の小物があった。「初任給をもらったら、パスケースを買おう」とおもった。
眠る前に、自分の心を、ねじり切りたくなる。

わたしはどうすればいいのだろう。
どこへ向かえばいいのだろう。

友人がもつトランクケースの中に、たくさんの刺し子がある夢を見た。わたしよりもずっと上手だった。

・家族に養われる
・自立できる収入を得る
・ひとり福祉を受ける
・結婚
・首吊る

ひとりぽっちで生きる覚悟も、家族から離れる決意も、他人と関係をもつ勇気もない。
さんざんだ。さんざんだ、と両親はおもっているだろう。どうにもならない、仕方がない、そうおもいながらも、同時に、どうにかならないものかと、おもっているだろうか。魔法がかけられて、わたしが普通のひとのようになることを、祈っているだろうか。それとも首を吊って早く終りにしてほしいだろうか。世間では、自殺はわるいなどというが、わたしたちの中では、自殺よりも無職のほうが、異常のほうが、無能のほうが、穀潰しのほうが、ずっとずっと、わるい。

生きていい、と言われたいのだろう。
それはあきらめなさい。

にんにくの匂いが消えない。

仕事の話はされない。なぜだろう。話してほしい。仕事の話ではなくてもいいから話してほしい。わたしと話してほしい。
それもあきらめなさい?
会話が失われたら、あとはなにが残るの。言葉で、父が母を絡めとる。わたしたちは見捨てられていく。わるいものになっていく。愛されたかった。人間になりたかった。普通のひとのようになりたかった。そのための、努力が、人1倍ひつようで、努力しながら話しつつけることはできなかった。苦しくて黙っていた。話せなくて黙っていた。そのあいだに、父は話し続けて、わたしたちは、わるいものになった。

疲れているのだろう。無理もないではないか。よく考えてみなさい。わたしは疲れていて、気持ちがひしゃげそうになっていて、とうぜんだよ。本も用意できなくて、つぎに、なにをすればいいのかわからない。わからなくなって、頭が煮詰まって、とうぜんだよ。わたしは失ったのだ。

自分が、どれほど、損なわれてしまったのか、風のようにときおり気づく。わたしはもう話せない。わたしはもう笑えない。脳は最後まで命を投げ出さないから、わたしの壊れてしまった部分を悲観しない。悲観する能力を、脳が閉ざしている。
それならば、これからさきも、わたしは悲観しないだろう。脳が適応してしまうから、わたしは叫べない。

お給料…

わたしの大切なこと
・窓の外を見ること
・無音
・葉っぱや鳥を見ること
・朝陽を見ること
・8時間眠ること
・歩くこと
・暖かいこと
・暑すぎないこと
・ルーチンができること
・他人に関わられないこと
・他人の声が聞こえないこと

苦しい。苦しい。怖い。

昨夜は殺人者の光。

わたしはどうしても生きようとしてしまう。わるい癖だ。働いて、自立して、飢え死にしないで済みたい。なにもかも手には入れられない。わたしよりもまっとうなひとでも生きてはいけない現実だ。わたしは望みすぎている。あきらめてはちゃめちゃになれというのではない。強い気持ちであきらめてほしいのだ。すべてを手に入れなくても、長生きできなくても、首をくくることになっても、それでも、幸せに生きることはできるはずだから。大切なものを大切にすることはできるはずだから。

「努力すればできることを努力しないでしていない」

母が、「もしかしてみんなすこしは頭がおかしいのかな」と言う。どうやら、母の正常範囲はとても広くて、これまではほとんどのひとが正常だったらしい。
わたしの正常範囲はとてもとても狭い。

Deemoにふたたび挑戦すると、こんどはダウンロードできたが、起動しなかった。

生きることをあきらめられない。

今日は父がとても英語。

わん。わん。わん。

エド・シーランのphotographを見て、涙をこぼす。つよく生きなくちゃとおもう。こんなにも愛されていたのだから。生きていることはこんなにも奇跡なのだから。

仕事に行くことになって、なんとか行けそうだとわかったら、そのときは、自分が生きていくことを前提にして、生きる。勉強をして、しっかりしたい、自立をして、働いて、生きていく。家族の役にもなにか立つ。本はすこしだけ読んで、家事をする。
仕事の話がなくなって、ほかの仕事も見つけられなかったら、そのときは、人生をあきらめてほしい。未来をあきらめてほしい。いまを生きて、いま本を読んで、いま家族のおつかいをしたり、いまお皿を洗う。そしてそのときがきたら、死んでしまう。

このふたつの人生は、じつは似たようなものだ。

このままではあと何日間もわからない。勇気を出して、仕事の話を母に訊く。母もわからないと言う。ということは、春から働けるかもしれない話のままなのかもしれない。
花火があがっている。

もうひとりの幼馴染みに会う。話をする。人間と話をする。とはいっても、ほとんど、相づちを打つだけだ。それでも、10分か、ふたりで会話のような状態にあって、終ると、のどががさがさして、咳が出る。自分でも驚いてしまう。げほげほ。
幼馴染みは、すこし辛いのかもしれない。わからないけれど。わたしは壁のようになって、相づちをたくさん打って、できることは、それだけだった。

鬱病になってから、ひとが変わってしまった。あの几帳面で、腕の立つひとが、入浴もできなくなって…」
たくさんのひとが、鬱病の話をする。けれど、わたしにはわからない。わたしは…ひとりのひとが衰弱死してしまうような鬱病の話は、多いのか、少ないのか、わからない。
わたしにわかること、わたしが実感することは、「ほとんどのひとはものも言えない」ということだ。語るひとはひと握りで、ものも言えずに、倒れるひとの、倒れる音で、かき消されている、無音の悲鳴が。

では、春から働けるようなつもりで、考えようか。