つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

8月6日火曜日

昨夜はみな眠る。

スマホはほとんど空なのだが、先日の体験から、感情が破れそうなほど肥大するときには、意識して、よそ見をすることを覚えたほうがよいかもしれない。いくつかアプリをダウンロードしてもよいかもそれない。そういうことをおもった。

自分のペースでいいよ。自分の姿でいい。すこしずつでいい。

幼さを痛感している。それは、自覚する気持ちと、奮い立つ気持ちの、ふたつに枝分かれする。自分以上にはなれない。けれど、わたしはあとすこし、わたしをたくましくできるのではないか。たとえば乗り物に乗るとか、そういうこと。

昨日ふと憧れていることをひとつ思い出した。
スターバックスに行ける

わたしの性格の幼さ、頭の弱さ、バイタリティの少なさ…スクワットをはじめて数ヵ月がたったとおもう。まだ膝が痛い。
難しいことは考えない。
ひとつずつがんばる。
ここまで、という壁が見つかるまで。

ずっと、ずっと、望んでいた猶予期間が与えられたのだ。しっかり生きていこう。

食欲がない。

わかなくなる。考え方が。

「パンを食べたら癌になる」と父が言う。

車の中で考えていた。なぜそう考えるのか、かんじるのか、うまくわからないが、自分はけっきょく甘えているだけのような気がした。施設と家と…つまり、わたしが実家で暮らしていることは…うまく、考えられない、言葉にできない、かんじて、頭の中で見ているものがあるのかもしれないが…率直に言うと、多くのものがこぼれ落ちてしまう。それでも言葉にするとすれば…そんなひつようがあるだろうか、言葉にしなければならないのだろうか、思考するためか、思考はなにを…わたしが実家で暮らしていること、これからも実家で暮らすことは、非常なことにかんじた。施設で暮らす家族がいて、わたしが実家で暮らすことは、なにかがちがう、とかんじられる。わたしは甘えているだけのような気がする。なにか、わたしは家
族を巻き込んで、時間をおかしくしてしまっている。淀ましている。それはおかしいことだとおもう。立派に、普通のひとのように、生きるべきだというのではない。もっとちいさな話だ。もっと近い話だ。わたしは…なにかがまちがっている気がした。時間の向きのようなもの…わからない。なにかが頭の中のなにかが、見ている。聞いている。かんじて、考えている。わたしは…

山村のアパート。営業時間の短いホームセンター。建て直された役場。歩いている女性、帰り道でも歩いている。体験施設。川。カヌー。馬。運動場。トラクター。雨に腐るトマトの葉。枯れていくとうもろこし畑。犬がいた。犬がいなかった。道路。踏み切りのない線路を越える。新しいコンビニ。古いコンビニ。カフェオレとカフェラテ。湿ったトイレットペーパー。白人。橋。あんぱん。チワワ。はねる水溜まり。一瞬、前がなにも見えない。

わたしも、父のように他人を思いやることができないのだろうか。

ショーン・タンの新作が、選書の棚に並んでいた。見たかったけれど、触れたら、壊れて、もとに戻らなくなってしまいそうで、見られなかった。

ニュースに映る女子高生を見て、父が、「賢い」と言う。とたんに、心の中が波立つ。そんな自分に気がつく。

疲れている。ふっと意識がおかしくなる。視界が妙になる。これは、疲れている。

すだれ。

疲れ。

深呼吸をする。