つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

8月7日水曜日

昨夜、「瞬冷凍!」と言って母が飛び込んでくる。なにのことかわからない。起きてみると、わけがわかり、走る。それからまた眠る
眠る前に、社会人のひとり暮らしの洗濯のことを考えていた。いつするのか。どこにも時間がない。すると、洗濯の夢を見た。洗うべき2枚のタオルが追加で見つかり、回っている洗濯機の中に入れるが、そのあと表示を見ると、あと2分で終了となっている。ということは、いま追加した2枚のタオルは、2分間しか洗われない。おそらく脱水しかされない。
それにしても、いつ洗濯をするのか。8時間働くために10時間がひつようで、8時間眠ると、残りは6時間。3時間ずつ朝と夜にあるとすると、朝は3時間、使う。夜は1時間で食事をすると、あと2時間は入浴できない。みんな、すごい。風呂の掃除はいつするのか。カーテンはいつ洗うのか。日用品の買い出しは、網戸の掃除は、コンロはいつ拭いて、ふきんはいつ洗って…主婦がひつようではないか!

昨日アプリ(Deemo)をダウンロードしようとしたが、不具合があり、できなかった。今日もやってみたが、途中でやめた。

ふしぎなかんじもするし、なにもふしぎではない気もする。自分の目がへんだ。落ち窪んでいる。
トマトの網にかかって死んでしまったカラスのことを考える。アー、アー、とないているカラスは、家族だったのか。

胎児期に男性ホルモンを浴びるとはどういう意味なのか。

しばらくまえにいちど、腕の毛を剃った。数年ぶりのことかもしれない。ふわふわの長毛がなくなると、翌朝には剛毛が生え揃っている。天使の毛みたいだった、何年も伸ばしていた毛のほうが、やわらかいし、正直で、好きだ。
なんとなく腋毛はそのままにしている。研究でも使えるような腋毛だ。働くことになってもおいておくつもり。他人には見せないし、わたしらしいし。

よく考えてみれば、結婚のハードルが高いのは家長である弟のほうで、女のわたしはさっさとお嫁に行くはずだったのかもしれない。お嫁になど行けないものになってしまって、すこし、両親に、申し訳ない気がする。気にはしていないだろうけれどね。

昨日母が選んでくれたパンを朝ごはんとおやつに食べることができて、とてもうれしかった。
絶対働きたくない父が、組織の中で何十年も働きつづけてきたことをおもうと、頭が下がる。
母は、このような(!)家族の世話をして、父からは、「仕事辞めたい。ひとりで山の中でお金使わずに暮らしたい」と言いつづけられて…
両親のことを考えると、すごすぎる。

読書をする。母は歯医者に出掛けた。のどが乾いた。わたしの勤務のことはどうなったのか、ちょっと、訊けないでいる。

「社員に向いていないかもしれない」と考えたことがこれまでなかったことが、意外だ。しかし、それもそうだろう。わたしは、そのような考え方を身に付けなかった。自分を考えず、自分を変えることしか、しらなかった。つくづく、向いていないかもしれない、とこの数日間はじめて考えている。まったくもって意外にも、わたしは芸術家だとか、無職とか、そういうものにしか向いていないのかもしれない。
向いていないと気づくと、なにか、心が安らいだ気がする。向いていないから芸術家になろうとはおもわない。向いていないから社員をするには苦しいこともあるだろうな、とおもうことができる、そのことにあっけないような、優しいような、気持ちになる。
自分を知ってしまったら、他人のようではない自分にしがみついたり、頑なになったり、諦める口実にしたり、そういうふうになるのではないかという恐れがあった。自分を病気や障害だと思い込み、そのように生きることに甘んじてしまうのではないか。
そうはならなかった。わたしはそうはならない。
わたしを捉えるものは、心の底から捉えるものは、どのような症状でも、名称でも、立場でもない。
そんなわたしであることを、両親に感謝しなければならない。

ひとは、自分の努力を認め、他人の怠慢を認めてしまいがちだ。しかし、実際には個人のもつ資質や、体質、そして周囲の環境が大きく影響している。健康なひとは、健康に気を遣っているから、というだけの理由で健康でいられるわけではない。不健康なひとが、健康なひとに劣る努力しかしていないわけではない。
気づくと、わたしは、父の英語に、あまり気を向けなくなっている。わからないほどすこしずつ、わたしも、変わっているのかもしれない。
暮らしのことを考えて、はじめて、この場所の尊さに気づいた。こんなにも優しい場所はほかにあるか。光があり、空があり、道路はなく、鳥がいる。

マーブルコートのフライパンを擦って、傷をつけてしまう。

よく見かけるアパートを検索してみると、レオパレスで、月4万円と管理費6千円とある。高い。すごい。こんなに高いものなのか。ほかにも見てみると、高い。あと、広い。中には、10人ぐらいが死んできたのかなとおもう値段の部屋もあった。
過剰になって、焦燥して、考えるときには、「できなければならない」とおもうばかりで、そうすると、形を見つけようとする。わたしはそこにどうやっても入るしかない。選択肢はない。できるしかない。
過剰に、いわば自殺他殺的に考えて、行動せずに、地に足つけて、生きたい。

昨日はおもった。わたしはいままで、「しなければならない、できるしかない」そんなふうにしか考えたことがなかった。だから、どのような選択も、自分の選択であるとはかんじなかった。ほかに道はなかったからだ。
自分の責任で、社会の中に存在してみたい。図書館に行くのは、やはりたいへんなことではあるし、自分の責任だが、ひとりで行くことだ、ひとりでやめてもよいことだ。そうではなくて、他人のルールや、社会の日程に、自分の意思で従ってみたい。自分の責任で選び、経験してみたい。失敗したり、挫折したり、休まなければならなくなったりしながらも、それでも価値があるとおもえる、自分自身に価値を見出だせるような、ことをしたい。と昨日はおもっていた。

近所のかたからいただいたレシピとにんにくを使って、母といっしょに、にんにく味噌を作る。わたしが切ったから、形も大きさも、ばらばらになってしまう。もうそろそろいいかな、と母が言うが、わたしは火の通りが心配で、もがる。じゃああと3分しよう。
おいしい、おいしいと、母と父が言う。
わたしもあとで食べた。おいしかった。味噌の味がした。

分厚い雲。灰色。

昼間見た空は晴れていて、白い大きな雲をじっと見つめると、焦点があって、雲が目の前にあるようだった。すじ雲がうまれてくる。飛行機が2機、順番に飛んだ。真っ白な十字架に見えた。大気の状態は、飛行機雲を作らなかった。
白い月が見えた。夜見る月よりも、ずっと近くにある気がする。白い細い月の模様まで見える。
そういう空。夏の空。

白猫が座っている。

窓に、灰色の羽根が3つ張りついている。だれかがぶつかったのかもしれない。

わたしはこの窓から外を見ることが大好き。

すずめが1羽死んでしまう。

幼馴染みが死んで、仕事の話などがあって、最近、わたしははじめて、「自分があと何十年か生きること」について、自然な気持ちで考えている。これまでは、自分が生きることはないとおもっていた

ずいぶん長い間、自分が4万円以上の給与を貰える可能性を考えてこなかった。働けて、給与がもらえるかもしれない未来を考えてみて、途方もないおもいになる。もちろん、うれしいけれど。

とはいえ、なにというか、意識みたいなものは、距離をとることをすこしずつ覚えてきたのかもしれない。
わたしが今日死ぬこともある。そのことを、身体のどこか、隅のほうが、しっかり、わかろうと、している。
焦燥しないこと。けれど、考えること。そして、死ぬことを除けないこと。

普通だと普通に考えられて、だからわたし自身も普通になるのだろうか。