つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

8月4日日曜日

昨日は感情がせき切って溢れ、涙を流した。そのまま泣いていたかった。そうすることもできたとおもう。涙はいくらでも流れ出たから。だけど、時間になって、泣くことをやめた。泣き止むことも、簡単だった。目が腫れていた。

食欲がない。

昨日泣いたのは、極度の憤怒に駆られて、両腕を殴りまわり、現実の窓を、これ以上はないという醜い目付きで睨みつづけ、ひっしに呼吸をしているなかで、母が、「仕事に行くのが嫌なら早めに言ったほうがいい」と言って、その瞬間に、わたしのなかの情動が瀑流になってわたしを呑み込んだからだ。部屋に駆け込み、うずくまって、おいおい泣いた。涙が止まらなかった。おかしなことに、さっきまであれほどに満ちていた怒りは消え失せていて、悲鳴のような感情がつぎつぎと沸いてきた。
自信がなかった。できることが想像できなかった。行きたくなかった。だが、行くことをやめたら、どうなる。行かないということは、首をくくらなければならないということだ。自殺しなければならない。涙が流れて、流れて、流れた。
これまでどこにも行かなかったわたしの責任だ。そして、図書館やなんかへひとりで行ったことの責任だ。
わたしは、身体の芯から理解した。わたしはなにもできないものなのだ。できない。人並みなことはひとつもできない。できるつもりになっていただけだ。わたしには難しすぎる。わたしはできないもの、わたしはそのようなもの。
「勉強として仕事に行ってみたら」と母が言ったこと。これまでは、母も父も、うなずかなかった。斜めを向いて、口を閉じていた。「難しくない?」と、訊くと、「難しいことじゃないから、できるとおもうよ」と母が言ったこと。「秋から働きに行くことになりそうです、保険もつけてもらえるって」と、母が親戚に言ったこと。これまで、こんなふうに言われたことはなかった。転がり込んできたみたいな未来だけど、母も父も、賛成して、応援して、期待してくれていた。こんなことはいままでなかった。これからもないだろう。
それひとつでいい気がする。
家族が、わたしにはできる、と考えて、応援してくれている。それひとつの事実で、歩いていける気がした。

自信はない。想像もできない。身体のなかには、不安が渦巻いて、わたしをばらばらにしていく。
だけど、やってみよう。
わたしにできることを、やればいい。

わたしを支えてくれてありがとう。お母さん、お父さん。

帰省の迎えに行く。前回の帰省のときに、「つぎはもっといっしょの時間をすごす。もっとやわらかに振る舞う」と考えていたことを、実践する。目を合わせて、にこり、微笑む。
「昨日は踊って楽しかった。暑かったのは、はっぴを着たからだろう。待っていた。疲れた。おかあさんはだいじょうぶ、疲れていない?」
覚醒している!

昨日泣いてから、思考が加速していない。考えすぎることはあるが、どこか線が引かれている。没入しない。意識して、ほかのことを考えたりもする。
食欲はない。
この状態はよいのかもしれない。
曇っている。
騒がしくない。