つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

7月24日水曜日

昨夜は眠れた。2度寝までした。

朝、ごみを出しに行く。

昨日は、これまでによくしたように、「行けないかもしれない」とか「具合がわるくなって途中で帰るかもしれない」と事前に言うことはしなかった。それは自分を明け渡す行為なのだろう。わたしはひらかず、普通のひとになった。

朝からまたまたまたまたニュースを見ている。怒らないこと。苛々しても仕方ないよ。自分の思考をしたらいい。自分の思考? それもろくでもないか。

人生を決めたいのだろう。こう生きると決めて、ほかのことは考えることをやめる。選択もそれきりしなくていい。リストをこなしていくだけ。でもわたしは考えることが好きなのだろう。

身体的にも精神的にも、力を抜いた状態を知らない。知っているひともいるようだ。どんなかんじなのだろう。安らぎはどんなかんじなのだろう。殺される心配をしないって、どんなかんじなのだろう

虐待を受けている子どもは、家族を告発すれば自分の生活が失われ、家庭にとどまりつづければ自分の心が失われる。どちらも地獄だ。
他人は、地獄ではない可能性のあるのだから、外へ行くべきだ、と考える。
だが、外は100パーセントの地獄かもしれない。しかし家庭ならば、ほんの一瞬のことであっても、愛や、生きていく理由や、自分の価値を見出だせる。完璧な地獄かもしれない未知の未来と、地獄であっても意味のある現実、選択をゆだねられたとき、ひとはどちらを選ぶだろう。

「(火事の現場から)ひとりだけ窓から飛び降りて、自分だけ助かったのか、ハッ」と父が笑う。

テレビでオーストラリアのこもれびあふれる広場があって、「あそこで両腕をひろげてリラックスして走っているときに、殺されるのだろう。プログラムされていないことが、現実の広場ではいくらでも起こるのだから、どこにいても殺される」とおもった。

しんどくなった。アルバイトをして辞めてアルバイトをして辞めて…繰り返して、やがては殺人者しかいない場所でしか働けなくなる
歯を磨きながら、歯なんか会社で磨けっこない、心がつぶれて無理だろう、とおもう。
ばかなことばかりだ。
働くことは、生きることをあきらめることだ。働けば、わたしは壊れるし、家族もわたしを捨てる。
しかし働かないままでも、捨てられるのだ。

わたしは家族に殴られていない。
殴られる場所で一生生きるひとも大勢いる。

選択しなどないはずなのに、あることになって、考えている。

なにをしてもわたしの責任だ。
でもそれは淋しすぎないか。わたしはひとりで生きてきたわけではないのに。

死ぬことを受け入れろ。
家族に捨てられることも受け入れろ。
つらくなれば、自殺するだけではないか。
それだけだ。
他人のように、生きなくてもいいのだ。
幸せにならなくてもいい。
生きたらいい。

殺されたくない。
でも死にたくない。
それではいけないのだ。
なにかをわたしの責任で殺さねばならない。
わたしか、わたしか、わたしを、わたしが殺さねばならない。
わたしはわたしの未来を自分の手で殺さねばならない。

仕事の苦しみと家族の否定
仕事の苦しみと家族の肯定

間違った行動をしてしまうのが怖い
行動しないとどちらの結果も出ない

・ずれている。目の前のことがわからなくなっている。
・読む予定に決めていた漫画を立ち読みすると、読めなくてとても驚く。視覚情報がわからない。
・使う予定に選んでいたテキストと、予定から外していたテキストを読み比べてみて、使う予定にしていた視覚に強いテキストが読めなくて驚く。言葉がメインのテキストのほうを目はたどりやすかった。
・出掛けた帰りに、自販機でアイスを買い、部屋に帰って食べる。勇気があってそうしたのか、わからなくなって行動しているのか、わからない。

就職するしかないとおもって出掛けたが、漫画とテキストが読めず、驚いてしまう。
家族に見捨てられることも、収入がじゅうぶんに得られないことも、受け入れて、生きなければならないのだろうか。
努力することと、受け入れることが、わからない。
努力が足りなかったと考えられる、なにであっても。

ずれすぎているのかもしれない。
そんなことを、夕食を食べながらおもった。

わたしはもう敗北して、取り戻せないものを捨てたのかもしれない。失ったと言いたいが、他人から見れば捨てたのだろう。

なにに耐えなければならないのだろう。