つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

8月21日水曜日

脳ともみあいになる。考える脳と、深呼吸をカウントする脳。

夢はトイレを求めてさまよっていると、クラスメイトに親切に声をかけられて、ぐらぐらする棒(棒状の鈴のようになっていて、棒の中の玉が裂け目から落ちそうになっている)を頭上でつかみながら、細いワイヤーを渡ることになり、1歩ふみだすたびにおおいに揺れて、後ずさりする。怖くはないのだが、うまくいかないから、みすみす前へは進めなかった。

なにを食べても気に入らない父と、なにを食べても怖くなるわたしと、粗食の弟と、生クリームが大好きな母の、みんながうれしくなる食べ物はないか。

自分が買ってきた食べ物が腐っていたり、毒が入っていたりして、家族が苦しむことにならないか、心配でたまらない。
心配でたまらない。

恐ろしくなって、帰り道に食べ物を捨てたこともある。
買った店を出た瞬間にごみ箱につっこんだこともある。
頭がいまよりも加速していて、混乱していたころのことだ。

自分を手放さないこと。
生きる意味を見失わないこと。
仕事に、没頭、する、なかれ!

これまでの職場は、電話をとらないものを非難する(これは優しい言い方だ)習慣があったから、だれもが我先に電話に飛び付いて、コールを奪い合ってきた。ワンコールも待たずに勢い出るから、電話の向こうのひとは、驚いていただろうか。
自分ばかりとりすぎると、こんどは、「とらないでいい」などと言われたりして、困ったりもした。飛び出る振りをして、実は半テンポ遅れて、ほかのひとに電話を譲る、という技術が、うまく使えなかったから。
前職場で、最後の方に、「おねがいだから、暴力はやめて。暴力だけはやめて」と、おもわず心の中で鮮明に考えた。そんなことを、思い出している。

昨夜妙なものが鳴いていた。

脳が興奮してやまない。
毒のことで頭がいっぱいになっている。
まったく落ち着かなくなっている。

帰り道、「やっぱりおかしい」とおもい、急遽…

店員さんはどのお店でも、優しかった。

勇気を出して階段をのぼる。ホールにはひとがいなくて、ひとりだけちらりと見えたけれど、慌てて目を逸らして、目を戻すと、いなくなっている。矢印を追って進むと、扉があり、窓がある。なかに、人間が見える。

午前中出掛けてみて、脳が混乱しすぎる気がする。それはもう、どうにもわからないくらい、とまらない、加速しつづける、よいことだろうか。わからない。
興奮しすぎる。なにもかもが落下しているみたいだ。わたしも、現実も、落下をはじめて、だからすさまじく早い。迫る。大量の情報の中を高速で抜けていく。わたし自身も大量の情報となって、撒き散らし、撒き散らされていく。

胃が痛い。
めちゃくちゃなのだ。
こんなんでいいのか。
いいはずない。
これではもたない。もとのもくあみになる。

こうではいけない。
こんなにかそくしてはいけない。

頭が混乱している。頭が混乱するだけの理由はある。
だけど、こうではいけない。

どうにかして、どうにかするひつようがある。

問題点
・運転の不安定性
・スケジュールの不足

日 午前 休 午後
月 午前 休 午後 買い物
火 午前 O 午後 M
水 午前 O 午後 買い物
木 午前 休 午後 M
金 午前 O 午後 買い物
土 午前 O 午後 M

昼食後、本を読む。読めないかもしれないとおもっていたが、没頭する。深呼吸をする。

ふしぎなかんじがした。わたしの人生の時間は数ヵ月も経っているが、番組の中ではまだ10日間の旅が終っていない。昨日の続きがはじまる。

8月20日火曜日

お盆を過ぎてから、朝晩が涼しくなっている。

夢を見る。2つのハンガーラックがあり、その下には数センチのほこりが積もっている。母が、「ゴミ屋敷並みだ」と驚嘆し、大騒ぎの掃除がはじまる。わたしは言い訳をしようとするが、ハンガーラックが2つもあったこと自体知らなかった。なぜ知らなかったのだろうか、とふしぎでならない。
大急ぎで車が進む。結婚式に向かっている。車窓から、1匹のヨークシャーテリアが見える。ヨーキーは全力で走っている。車を追い越す勢いだ。いったいどこへ向かっているのか。ヨーキーは以前にも走ったことがある道なのか、すいすいと、建物の隙間も飛び越えて、どんどん、進んでいく。猛烈な勢いである。その姿が、突然消える。進行方向に待ち構えていた男が、袋の中にヨーキーを受け止めてしまったのだ。袋の中でヨーキーは動かず、丸くなっている。そばには母犬も詰め込まれているが、反応がない。地獄の日々へ逆戻り。しかし、よく見えはしないヨーキーの、不屈の精神がなぜかかんじられる。あの犬はまた地獄から脱走して、あのように全身全霊で走り、走り、追っ手を振りきろうとするだろう。
大通りに出ると、そこが会場になっており、たくさんのひとがいる。わたしはちらちらと、彼らの様子を見る。母が、「顔は覚えているでしょう」と訊いてくるが、驚いて首を横に振る。まさかわたしひとりがここへ置いていかれてしまうのか。たくさんのひとのなかには、ほとんど普段着のようなものを着ているひとも、ドレスを着ているひともいる。普段着の女の子は、しかし落ち着いていて、斜めにかけたショルダーと、傘を持って、目を伏せて歩いている。父と母と叔母が、話し合っている。「走れば5分で着くだろう」と言う声が聞こえて、5分は難しい、と声をかけると、家に帰るのではなく、待ち合わせをするのだと言う。しかし、それは中止され、また車で走り出す。コンビニに寄る。おでんが売っている。店員は数人い
て、そのうち1人は見覚えのある女性なのだが、名札を見るとちがっている。同一人物なのに。母がシュークリームをもっている。わたしは、でこぼこのソファを見つめて、どうにか、1部に腰掛ける。
つぎの建物は、図書館の気配がする。ほかにもひとがところどころにいる。階段を上ったり、する。いつのまにか、服屋さんになっていて、服がたくさんある。わたしは紺色のワンピースを着ている。結婚式のための服は家にあって、着替えに帰らなければならないのだった。レジに叔母が行く。真珠のコサージュを買おうとしている。わたしの胸につけるとよい、と言う。本人は1万円だと言うが、ちらりと見えた値札には2万円とある。わたしは心配になる。レジのひとが金額を言うと、叔母は、「まけてくれないか」と言う。レジのひとは、驚いた様子だが、「5百円まけて、9千5百円」と言う。交渉成立。
車内は慌ただしい。時間がないのだ。もう式ははじまっている。服を着替えに帰らねばならない。
郵便局へ寄る。車内に残る母に訊くと、「ついでだからはがきも済ませてくればよい」と言う。2重のカウンターがあり、叔母がすたすたと奥のカウンターの前に立つ。手前のカウンターの職員は、驚いている。わたしはどうしたらよいかわからない。ひとまず、手前の職員のところへ行く。わたしははがきを出す。「書き損じの分なので切手にしてください」職員の男は初老で、はがきは受け取らない。代わりにアルバムを出してきて、さまざまなひとびとの結婚式の写真を見せる。青色のウエディングドレスが見える。男は、「それはほんとうに書き損じですか」と訊き、はがき1枚1枚を、ひとつひとつの結婚のように、愛情深く大切に扱う。わたしはわからなくなる。ほんとうに書き損じだったのだろうか。
車内に戻ると、相変わらず大慌てでパニック状態の父と母に、「わたしはこの服で行く。カーディガンの下には紺色のワンピースを着ているから、カーディガンとレギンスを脱いで、ワンピースにコサージュを着けていく」父は驚くが、母は着替えを手伝ってくれる。黒のニーハイがさしだされ、それを履く。もしかしたら膝の上が見えてしまうかもしれないが、たいしたことはないだろう。あの結婚式は、他人の結婚式であるだけではなく、わたしの結婚のために用意されたものでもあったのだ。あの式で、わたしは用意されたひとと出会い、結婚へ向かうことになる。そう、父や母や、周りのひとびとが考えていたのだ。わたしは、郵便局員の振る舞いを見るまでは知らなかった。知ったいまは覚悟が決まり、気丈になっている。

もうひとつの夢では、生き残った幼馴染みが、自分でベランダに閉め出されたところから連絡をしてくる。ベランダから見える見知らぬ男に陶酔していると言う。わたしの母は驚いて、ばかなことはやめるように説得するが、幼馴染みは聞く耳を持たない。わたしは母に、「このまえ幼馴染みと話をしたときがあったよね。あのとき、母さんはかんじなかった? わからなかった? あのひとはとても追い詰められている。とても辛いのに、それを表せないで…」わたしは、自分がこんなにも長く話をしたことに驚く

全力で走る、ちいさな犬の後ろ姿が、脳裏に焼き付いている。

昨日、午後のおやつは我慢したものの、夕食後のその後にまた衝動的になってくる。食べてしまおうか。しかしせっかく持ち直したのだから、飲むだけにしようよ。台所へ行き、炭酸を飲む。これも、父と母が買ってくれたものなのだ。簡単に消費してよいものではない。炭酸を母と分けて飲む。父はテレビを見ていた。「1日中ひとりじめしているなあ」とおもうが、実際には、父は英会話もやるし、掃除もするし、畑に行くこともある。スマホもしょっちゅう見ている。
父に誘われて、母がわたしのそばからいなくなる。わたしはまだ炭酸を飲んでいると、母が離れたところから、声をかけてくる。「仕事のはじまるころが決まったみたいよ」
青天の霹靂! 過食のことなど頭から消え去る。夜の散歩はパスしようかな、という迷いも消え去る。勤務開始日は、聞いていたよりも、3ヶ月早まり、いまから3か月後になったようだ。引き継ぎがあるのかもしれない。
おおいに動揺はあるが、そうなるかもしれなかったことではある。
母が、「まあやってみてごらん。できるとおもうよ」と言うと、すかさず父が、「嫌ならすぐに辞めればいい」と言う。母が肩を落とす。そういうわけにはいかないだろう。紹介で働くことも、ほかで働けそうにないことも、そういうわけにはいかないだろう。しかし、父は、「(なぜ黙るんだ?)そうするより仕方ないではないか」と言う。
わたしはずっと「仕方ない」ものだった。17のときから、ずっと。父は、仕事に行けなくてもいいよ、ここにいていいよ、と、言っているのではない。働けないなら仕方がない、生きていけなくて仕方がない、自分の身には自分で責任を持ちなさい、と言っているのである。
「あの子は死んでも仕方がない」その言葉は、わたしを傷つけもするし、楽にもする。すくなくとも父は、わたしの命にあきらめがついている。もう10年も経った。

夜は眠れなくならなかった。衝撃はあったが、するべきことを考えると、気が紛れたのかもしれない。考えていたことをぶち壊す気持ちにもならなかった。ひとまずは、予定していたようにしよう。なにもかも変えてしまったら、わたしはもたない。本もそう。読んでいた1冊が読み終ってしまって、つぎの1冊に移るとき、わたしは簡単には対応できない。このままずっとページがつづけばいいのに、とおもうこともある。それでも、しばらくのあいだに読む数冊の本を決めて、用意して、なんどもなんども頭の中で、つぎに移行する想像を重ねていくと、すこしは楽に行動できる気がしている。それには、本を決めて用意する、という大きな試練があるけれど。そしてそれはたいてい、つまずく。いまもつまずいている。つぎに読む本
を用意できず、ほかの本を読んでしまっている。頭が追い付かないかんじがある。しかし、そういう、思い通りにいかない経験もあってよい。わたしはそこから、すこしずつでも、学んでいるだろう。

放蕩息子がじつは10年を1日ですごし、箱入り娘はじつは狩猟民俗で、わたしは仕事にしか生き甲斐を見いだせなかったが、弟はどんなに多忙でもけして趣味を捨てなかった。

湿度が高いようだ。

白猫いない。

妹猫いない。

父が他人に興味をもたないのは、もともとは、実母にたいして全身全霊の興味を傾けていたからではないだろうか。他人に、心を裂くなど、父には意味のないことだったのかもしれない。
わたしも同じだろうか。わたしが他人と関係を持たないできたのは、関係が持てないからというだけではなく、もっとも根本には、「要らない」というおもいがある。家族しか要らない。

カーディガンが首筋にじかに触れることを避けてきたが、考えてみれば、首筋に触れてもかまわなかった。

「とてもおとなしくて、○○だから」と言っておいたからね、と言われて、父が、「○○とはいったいだれのことか」と訊き、空気が止まる。○○がなにだったのかどうしても思い出せない。打たれ弱い、とか、気が細い、というような意味だった気がするのだが、わからない。
父が問い返したときに、「じゃあ、わたしのことは、ずうずうしいタフななまけものだとおもっているのか」と考えた。瞬間的なやりとりには、鋭い感覚があり、脳はついていけないが、ついていこうとすると、ずれていく。

スタディアプリを使おうかと考えていたら、スマホが古く、使えなかった。

今日は言葉を2度話した。声帯が弱っているようだった。それとも怖くて、声が出なかっただけだろうか。自分の声を聞きながら、自分で驚いて、戸惑ってしまう。だれが話しているのだろう。こんなにも聞こえない声で。

今日は午前中にするべきことができた。

「体力をつけるように」
どうすればよいのだろう。過剰に走り出しそうな自分と、日に1時間歩けたらすごいよ、となだめる自分がいる。
図書館に行くことか。
夕方、明日図書館に行けるように、もっと近い場所へひとりで出掛けてきた。そうしておけば、明日の動揺が少なくなるだろう、と考えて。

日のあるうちに、散歩をしてもよいかな、とおもう。恥さらしは禁止されていた。しかし、働くのだとおもえただけで、外見も、現在も、変わりはしないのだが、穀潰しが穀潰しではなくなる予定になって、恥さらしがすこしはさらせられるものになりそうで、散歩をしても、わるいことではないような気がしてくる。帽子をかぶり、ひとめにつかないように歩けば、もしも監視されていて、バレてしまったとしても、わたしは働くひとになって、家族も、働くひとがいるひとになるだけだ。「ちょっと体力をつけているだけです」と言えるのではないか。

疲れているのかもしれない。本のことだ。たぶん疲れてしまっているだけだ、休んでもよい、と車内でおもった。

わたしは…

図書館に通うことにしようかとおもう。理由もできたことだ。遊び歩くのではない。責められることはないかもしれない。わるいことではないかもしれない。

図書館のアプリも、使えない。
けれど、このスマホでいい。
仕事に通っても、LINEは使わないつもりだ。

興奮した空気の中で、なぜか母も父も立っていて、やがて母はスマホを見たりしはじめて、わたしはどうしたらよいのかわからなかった。人間の心はパーセンテージでできている。愛も憎しみも、おなじ場所にある。

8月19日月曜日

昨夜は寝つけない。仰向けになって、まったく眠る様子がないことに気づく。深呼吸をして、指先から集中するが、集中はできない。怖くなる。朝から夜まで、昼休憩をはさんで働くこと、顔に泥をぬれないこと…。怖い。とても怖い。
夢を見る。石段のある山道を自転車で20人ほどと上っていく。自転車は電動で、それぞれちがう形と色、電動のついている場所も、前輪だったり、後輪だったりする。だれもが、すいすいと、石段を上る。先頭は眼鏡の書店員さんで、後ろの方には書店長もいる。頂上に着くと、みなが歓声をあげて、自転車を降りる。写真を取り合いはじめる。わたしはひとり、知り合いもない。みなが仲良く肩を寄せあい、写真を取り合う姿を見て、気後れがする。恥ずかしくて、隅の方で、斜めを向いている。書店員さんがとくによろこんで、はしゃいでいる。やがてひとりの女のひとが、たまたま近くにいたわたしに、「いっしょに撮りましょう」と声をかけてくれる。ほっとしつつ、緊張しつつ、彼女の隣に立つ。すると、彼女はとても大きい
ことに気づく。わたしよりも頭3つ分ほど大きい。彼女はわたしに合わせて、頭を傾けてくれるが、そうすると、彼女が側頭部でまとめている鳥の巣のような義毛のような塊が、わたしの顔を覆い隠してしまう。わたしは、かーっと、恥ずかしくなり、焦りながら、顔を傾けて、どうにか塊から顔をのぞかせる。パシャリ。
あっという間に、みな自転車にまたがり、山を降り始める。来た道を引き返すのだ。わたしは頂上の奥にトイレを見つけて、とっさに、「お手洗いに行ってもいいですか」と書店員さんに声をかける。書店員さんはやや面食らっているが、ゆるされて、トイレに入る。和式で、下げると水が流れる銀色の棒が、しゃがんだわたしの目の前にある。しずくがついている。結露だ。顔をあげると、書店員さんと目が合う。書店員さんはトイレの外に立っていて、わたしが出てくるのを企画者の責任として、一心に待っている。トイレの外にある鏡と、内にある鏡の作用でその姿が見えるのだ。ということはわたしの姿も向こうに見えている。恥ずかしくなって、視線を逸らし、あとはけして見なかった。
トイレから出る。みなはもう自転車で出発してしまっている。わたしと書店員さんが最後だ。トイレからつづく白い壁面に、赤と黒ツートンカラーの数珠に似た大きな虫を見つけて、わたしはおもわず、書店員さんに指を指して教える。すると、書店員さんも興奮して、「わあ、すごい」とか言う。ほんの短い時間のことだった。虫は、玉と玉の間で分かれて、先頭の4つほどの玉でできた部分が、後部から羽を出して、飛び始めた。うわあ。ふたりとも無邪気に驚くが、つかの間、その虫がわたしのすぐ近くで飛び散る。虫の毒針か毒羽か、なにかが、わたしの首筋に付着する。わたしは失神する。
目を覚ますと、頂上に仰向けになっている。店長も引き返してきている。わたしははじめ、仰向けのまま大泣きをするが、やがて落ち着く。「だいじょうぶです、歩けます」
石段の山道を降りていく。わたしはこれまで、店長とも書店員さんとも、こんなに近くにいたことはなかった。話したこともなかった。ショックにうつろになりながらも、そんなことをおもう。みなにも追いつく。右手に、電気のついていない小屋のようなコンビニが現れる。雨が降り始める。だれか女のひとが隣にきて、茶色の木でできて傘に入れてくれる。ふたりとも歩いているから、うまく傘の中に入れない。女のひとは、だれかに親切にしたかっただけで、そこにわたしがいたから、声をかけただけだった。
山を降りると、駐車場に出る。数台のバスがあり、そのそばには、バスと同じ長さのテーブルが並んでいる。ひとびとは続々と席に着く。振り替えると、ひとつしかないトイレに、山から降りたひとびとが、器用に、流れるように並んでいる。わたしは、もういちどトイレに行っておきたいが、勇気がない。テーブルの方に向かうが、そのとき、自分の記憶がわからなくなっていることに気づく。どこがわたしの席なのか、なにも思い出せない。わたしはうろうろと歩き回る。どんどん席は埋まっていく。座っているひとに、わたしを知らないか、と訊くが、だれも知らないようだ。ひとりで歩き回りながら、「最後に残ったひとつの席がわたしの席なんだ」、とひとりで言う。
別の夢では、またしても、家に帰れなくなっている。わたしは、汽車に乗って帰ることを、周りの同級生たちにもちかける。しかし、だれもぱっとしない。だけど汽車なら値段も高くないし、乗れば確実だから、それで帰ろうよ、いっしょに乗ろうよ。だれもうなずかない。

今朝もニュース。人殺し、狂女、幼児溺死、高齢者ドライバー、生涯免許剥奪。おいしい、おいしいニュースです。おとこがおとこを1日中殴っています。やけただれて穴の空いた腕。泣き叫ぶ女。ぜんぶ経済。残虐な映像を流して、目を覆いたくなるニュースを伝えれば、みんな買うから。どんどん買う。
朝の、1日のはじまりの朝の、ドーピング。父は大喜び。大喜び! わたしはたましいがへどろになる。
みな、他人をモンスターと呼んで、あざわらい、蔑み、排除する。自分にはそんな可能性は見いださない。自分が他人を殺すことなど空想したこともない。自分は事故を起こさない。癇癪も起こさない。虐待をしない。馬鹿な真似はしない。馬鹿じゃないから。他人みたいにおろかじゃないから。
わたしだってそうだ。運転には怯えていても、けっきょくは、他人を通りすがりに刺しはしないとおもっている。火をつけないとおもっているし、叫びさえしないとおもっている。狂わないとおもっている。正しく生きられるとおもっている。

みんな狂っている。

わたしはただ、報道に操作されることに同意したくないだけだ。1日のはじまりの、緊張と弛緩がどうにかバランスをとろうとしているときに、他人が殺される映像や、それがあたかも未曾有のできごとかのように話すアナウンサーの声を聞きたくないだけ。自信をこなごなにされたくないだけ。歩こうとしている、小枝みたいな足を、わたしは折りたくない。
みな平気。それどころか、父には快楽だ。
父のことは受け入れられても、アナウンサーとは目を合わせたくない。
わたしは平気で生きていない。ぎりぎりで生きている。それはだれかのせいじゃない、現実のせいでもない。だけどわたしは死にたくなくて、生きているから、殺さないでほしかった。
疲れきった。
他人を殺しつづけることが生きることなのだ。

生理前でもないのにこんなに身体を殴ってさ。なにやっているんだろうねえ。朝見たニュースのことで頭がいっぱい。もっとつらい干渉はほかにもいっぱいあるのにねえ。ほら、父さんが言っているよ、「そんなんじゃ、どこにも通用しないぞ」
もっと狂ったもので上書きする。ドーピングを消すためにドーピングを繰り返す。わたしは嘘くさくなる。

わたしはなにひとつ適当にはできない。振り払えない。見て、見て、見て、見抜きたい。

前職のときに、母が、息抜きをすることを教えてくれた。そのことを、こんどの仕事ではしたいとおもっている。いっぱいになるまえに、息抜きをすること。
わたしは、ボロ雑巾のように扱われても平気なところがある。むしろちやほやされるよりも、怒鳴られて、指を指して笑われたほうが、気が楽になって、うねうねしながら耐えて、集中してやっていける。これ以上落ちようがないから、あとは這い上がるだけ。這い上がれなくても、ふしぎでもないしね。わたしの心は実はちょっと強い。
問題は身体のほうだ。身体が悲鳴をあげる。わたしの管理をすり抜けていく。自立して、反逆をはじめる。
そんなにどきどきしないで。そんなに硬くならないで。だいじょうぶだよ。
「だいじょうぶじゃないよ、なにひとつ」

もっとうるさい。ここよりも、いまよりも、もっとうるさい。もっと残酷。もっとまぶしい。もっと定まらない。もっと躍る。もっと鋭い。もっと狭い。もっと許されない。もっと求められる。もっと多様なものがより集まって、正常なふりをして、排除する。

考えまちがえているのかもしれない。動揺しないようにするのではなくて、動揺することを受け入れたらいいのかもしれない。
きれいに生きられないことを受け入れて、ぼろくそに扱われて、どぶに捨てられて、それで…

過食をした。食べながら、「これが最後とかおもうけれど、どうせ最後なんかじゃない」とおもう。やさぐれている!

自分の幼い癇癪がおかしくなる。だが、わたしだけは、わたしを笑わないでいたい。どんなにあほらしいことに見えても、わたしは真剣だから。真剣なわたしを、父のように笑わない。わたしだけは受け止めて…それとも笑えばいいのか。

変わらされることが怖い。見たもの、聞いたものが、わたしを変えてしまう。それが怖い。

白猫いない。ぶち猫いない。

はぴはどこ。

なにもしていなくても、とつぜん、頭がおかしくなって、とても怖くなって、死んでしまいそうで…

パニック障害には運動がよい、って、どうやって運動するのだろう。散歩、自転車、それともベッドの上でヨガ。でもそれって、パニックの中でできるものだろうか。死にながらのたうちながらできるものだろうか。できるなら、できていたのではないか。

わたしはずっと、つまり、小学校から最後の学校までのあいだずっと、通学に苦労した。怖くて、不安で、広すぎてたまらなかった。広すぎて、満員電車の中で踏み潰されているみたいだった。へんだけど、そうだった。広すぎて広すぎて、頭が破裂しそうだった。そして父に何度でも置き去りにされて、失禁しかけて、頭が…

「なまけているだけ。我慢が足りないだけ。バイタリティをもちなさい」

過食は子どもっぽすぎる。

勉強しているなんて何様か、とおもわれることが怖い。勉強すらしないなんて何様か、とおもわれることも怖い。
家族の足音が聞こえたら、机の上をさーっと隠している。
そもそも机の上にはなにも置いていない。
本棚にはショールをかけて、中を見えないようにしている。こんな本読んで何様か、とおもわれることが怖い。
あとひとつでも否定されたら、耐えられないのではないか。
わたしはわたしを切り詰めてきた。わたしはわたしであることを放棄して、人間として中性化してきた。好きなもの、ない。したいこと、ない。大切なもの、もうない。そうして、父に笑われたり、母に追い出されたりしないように、目を光らせた。
ほんとうは、耐えられたらいいのだろう。だが、わたしはもう体力がなくなった気がする。あとひとつでも傷を負えば、どうなってしまうのだろう。弟はよく狂わないな、とおもう。あんなに父に言われて…。弟がどうなっても、わたしはふしぎじゃない。どうにもなっていないほうが信じられないくらいだ。よく、おもう。今夜こそ火をつけられて、わたしたちみんな、焼け死んじゃうのじゃないか…

本棚。

服もない。

鞄もない。

あるのにない。

へんなの。それが嫌だとか、父や母にほめられたいだとか、おもっているのではない。ただ、ただ、ただ、ひとつだけ、もう、傷つけないよ。

へんなの。へんなの。

父も母も立派だなあ。ずっとそうおもってきて、憧れてきて、つぶれちゃってきたけれど、でもやっぱりすごいなあ。
わが子を殴る親はたくさんいる。売春を強要する家族もありふれている。利用し、利用する。

昨日父が、働いていた頃のことを話してくれて、わたしはなんだか、胸がいっぱいになった。父が若いひとたちに、「わからないから、教えてほしい。代わりにやってほしい」と言うと、「時間がありません」と断られたそうだ。それを見た上司が、「だれか彼に教えてあげなさい」と言ったという。3者それぞれの立場をおもうと、なんだか、切ない。
父も、わたしみたいに、心はタフに耐えられるけれど、身体はその分あばれ狂う、ということがあったのかもしれない。
父は大勢の他人には好かれない。素直すぎるからだ。考えや感情がそのまま言葉や態度になる。存在そのものが表現であり、父があたりさわりのない人間になったら、それは死んだということだ。非常に利己的で、情がない。家族も他人も平等に吐き捨てられる。
けれど、という保留の要素もとくにない。
けれどね、わたしは父が好き。はっきり言って、父のような剥き出しの人間でなければ、付き合いもわからないし、愛しかたもわからないくらいだ。結婚をするならば、父に似たひととするだろう。わたしは母のようにはなれないかもしれないが、それでも、父を選ぶ。ほかにない。考えたこともない。想像もできない。
だから、他人が平気で父を傷つけるとき、父はたいてい傷つかないのだけれど(だって、蟻や、風や、机に、腹をたてるひとがいる?)、わたしはちょっとむっとする。なんというか、父は父らしくあるだけであって、それを他人に非難されるいわれはないからだ。いわれはあるのかもしれないが、それでも、「そっちががまんしろよ」と言いたくなる。

わたしはとにかくとにかく、正直な人間が好きだ。ほとんどの人間は嘘をつく。言葉の嘘も、態度の嘘も、怖い。見抜けているとおもうときほど、見抜けてはいない。他人の気持ちがわかるひとほど、わかってはいないように。

過食しすぎました。

わたしをどうしたらいいのかなあ。もうすこし落ち着いてほしい。たぶん、やすらいだほうがいい。緊張していると、なんとかしてほぐそうと、無意識が肥大してくる。トマトを道路に投げつけて、「これでやわらかくなったね」とか言いかねない。もちろん、トマトはわたしだ。

あごひげだけを剃りぬかったため、今週はあごひげがふわふわしている。
光に反射して、透明に見える。

過食しすぎたものの、気を取り直して、しかも勇気を出して、自分の身体のことはあまり気にせずに、することをする。

ファンデーションを塗る。今月はほとんど身だしなみを整えなかった。言い訳はできるが、しなかったことはしなかった。
今日はチークを塗る。えらい。

母が話しかけてくれていたが、聞こえなかった。目の前のことがわからなくなっている。

昨夜の覚醒は、ひとつはコーヒー(先日数ヵ月ぶりに飲んで、また飲んだ!)もあるが、仕事の話もあり、簡単な原因ではない。それでも、頭の中がぴかっとして、幻聴ですらなく、なんというか、わたしそのものがわたしにたいして光すぎていた。しかもわたしはそれを爛々とした目で見てしまっていて、だから、どうにもおさまりそうになかった。すこし怖かった。すこしだけだ。だが、恐怖を覚えることすらないあのようなときに、人間は振りきれるのかもしれない。

言葉にすると怖い。失ってしまいそうで怖い。言葉に見つかって、言葉よりも大きなものに見つかって、取り上げられてしまいそうで、怖い。
わたしは、うまくできないときもあるけれど、冷静なときには、とても、とても、家族に感謝している。1日にいちどくらいは冷静な時間がある。そのときに、わたしという存在の芯から、表層までが、それぞれの力で、家族に感謝することをやめない。

昨日、「家族に世話をさせることにならないように、健康や生活に気を遣うことは大切だ」と聞く。わたしは、自分が「家族に世話をされる」状態をあまり考えたことがなかった。そんなことになったら、世話はされず、見捨てられるだろうとおもっていたからだ。けれど、現実がどうなるにしても、最後まで、投げ出さない気持ちをもちたい。わたしはこんなふうに毎日毎日わからないことばかり考えていて、無駄にも見えるだろうし、他人が同じことを考えていたら、まったく理解に苦しむ。だが、わたしはわたしをすこしは知っている。ここに言葉にされないものがあることを知っている。ここは、わたしのすべてを記録される場所ではない。それは不可能なことだ。人間は意識だけではなく、無意識でもあるし、意識にしてもパー
セント、白黒つきはしない、どちらの要素ももっているのだ。

家族に感謝している。感謝しすぎて身のほどを抱えきれなくなるときもある。わたしが在ってよいはずがない。
1日中はそう振る舞えなくても、わたしの中に、たしかに、家族に対する感謝や、愛情や、愛着が、あってうれしい。
そして、うれしいとおもうわたしでいられるのも、家族のおかげだ

・身体の具合を整えること
・自分のしたいことすること
・それらの過程をじゅうぶん体験すること

居間も母も父のもの。時間も行為も父のもの。

居間にいたい。夜の1時間でいい。気が狂うニュースではなくて、風景や猫を、父と母と見たい。

弾き飛ばされてしまう。空間に弾き飛ばされてしまう。しがみついていなくちゃ、存在がなくなる。
弟はいなくなった。
つぎはわたしの番だ。
だけど耐えられない。

なんで、分けあえないの。

排除されていく。
そして、見えず、居ず、聞こえなければ、しだいに憎まれはじめる

メイクしているのがよくない。とても気持ちがいやになる。

8月18日日曜日

昨夜眠るときに怖くなる。

復職する夢を見る。時間なのに、制服がどこにあるかわからない、復職のメールも見つからない。メイクのやり方も忘れてしまって、あてずっぽうにファンデーションをつけると、小麦色の肌になる。窓の外に猫が5匹もいて、そのなかにはぴもいる。はぴは伏せて、猫たちが怖がらないように、そっと、「遊ぼう」のサインを示している。目の前に延びてきた猫のしっぽを、すこしくわえる。わたしは背後の母に、てのひらを広げて、5匹の猫とはぴを示す。はぴは楽しそうで、おだやかで、わたしもうれしい。今日が出勤なのか、何時に出勤なのか、すべてが曖昧にしか決まっていなかった気がして、携帯をひらく。ひとつのメールには、「いま復職時! あなたの元同僚は課金するゲームにはまっています」とある。もうひとつには
、「姉が1級建築士の資格試験の勉強をしているから勉強をしています。わたしはそろそろついに辞め時です」

昨夜は怖くなって、深呼吸をしたけれど、怖かった。わたしのすべてがまちがいで、取り戻しようのない罪を犯してしまっている、そんな気持ちでいっぱいになって、現実を抱えきれずに、恐怖に震える。

昨日はずいぶん落ち着きがなかった。図書館に行くかどうかわからなくなっていたからだろう。具体的な行動がわからなくなったり、迷っていると、とても落ち着きがなくなる。そわそわして、やたら動き、混乱して、おかしなふうになる。じっとしていることができない。焦りが動いていく。おかしな様子になる。

昨夜怖くなった理由の1分には、メロンパンを3分の1食べたこと、160円のぶどうジュースを買ってもらってしまったこと、そこには加糖ぶどう糖がたっぷり入っていたこと、図書館の中を隅々まで母を引き連れ回したこと…

目の前のことがわからなくなっていることさえ、わからなくなっている。

わたしは、しなければならないことを1日中してしまう。それではやがて疲れて破綻してしまうから、しなければならないことをひとつもせずに好きなことや無為なことだけをめいいっぱいして、罪を犯そうとする。期間限定の罪をもつことで、その後の人生を永遠の罰として生きるなり、いつまでも罪を重ねつづける仕方のない人間として人生を過ごすほかない、と考える。これらは大真面目な考えだが、おかしい。
しなければならないことと、しようとおもえることの、バランスをとれること。簡単なことではない。それでも、投げ出さない。

これからどのように生きるのか決めたい、という欲求が強い。切羽詰まった気持ちがある。たとえば、図書館には午前中に行くのか、午後に行くのか。働いてそれからどうするのか。なにを学べばよいのか。どのような態度ですごせばよいのか。
今朝、ふと考えた。図書館に行く曜日や時間は、1年中、そしてその後の生涯、定まらなければならない、ということもないのではないか。わたしはもしかしたら、もうすこしだけ、柔軟に生きられるようになったのではないか。そんな気がした。

わたしは自分のことを「真面目」だとおもっていた。ふしぎなかんじがする。わたしはいまも以前もとても真面目なのに、真面目なひとができそうなことができない。できそうなこと?
ふしぎなのだ。自分のわかっている自分と、自分とはちがっている。わたしは真面目なのに、束縛がつらくて、わたしは真面目なのに、盲目にはなれなくて、わたしは真面目なのに、命を懸けて働ききれなくて、わたしは真面目なのに、自分を信じられずに、迷ってばかりいる。
ふしぎなのだ。わたしは公務員になったり、独学を生涯つづけたり、家事をしたり、家族のためにどんな仕事でもして、私利私欲なく、黙々と生きていられるはずだった。それなのに、わたしは、学校にも通えず、仕事にも通えず、かといってひとりで選ぶことも生きることもできない。
真面目なわたしが学校に通えない、朝から晩まで会社にいられない、ってどういうこと?
自分のペースで、ひとりきり、適当な具合に調整できて、休んだり、詰めたり、やり方を変えたり、やめたり、一生懸命やってもよくて、だれからも見張られていない、そんな仕事がしたい。なぜ? わたしは公務員じゃなくて、狩猟民俗なのか。なぜ。わたしはこんなにも真面目なのになぜ狩猟民俗なのか。

わたしは言葉に囚われて、自分を見つめることも、知ることも、してこなかった。わたしが、「真面目」という言葉に信じるものに、わたしを見ていた。でもわたしは言葉じゃない。だからずれてしまう。

それでも、やっぱりおかしなかんじがするのだ。わたしが狩猟民俗だなんて。わたしはひとつの会社に就職して40年間そこで働きたかったのに、わたしは落ち着きがなくて、狂ってしまいそうになる。とにかく、明日も、来週も、1年後も、そう考えると、息もできなくなって、苦しくて…いますぐこの枷を振り払わなければ、この義務から離れなければ、そうでなければ、つぶれてしまいそうになる。

10年1日が、1日10年。1日10年が、10年1日。反対の方向に進み、憧れ、求め、求められて、ひつようであっても、ひずみはなくならない。

身体感覚に生きる時間がやすらぐ。思考が止まり、身体が先行する時間。解き放たれる。人間から、現実から、時間から、命から。信じられないことだし、考えたこともなかったが、わたしは会社員よりも、スポーツや手仕事が向いていたのかもしれないね。自分の場所で、自分ひとりで、思考せず、できること。
自分の具合でならば、本を読んでいけるのではないかとおもう。本を読むことだけが、わたしの手仕事。

愛しかない。愛ばかり。
知りたいことも、できたいことも、けっきょくは愛のことだった。わたしは人間を愛したかったのだろう。そして人間に愛されたかった。愛するということは、手に入れることではない。知ることだ。知ることが愛になる。愛と呼べる。存在を認識することが愛だから。

言葉にするとひるんでしまう。けれど、こうして言葉にしていくと、自分がどのように考えるのか、どのように迷うのか、どのように怯えて、混乱し、あきらめきれず、努力したがり、逃げたがるのか、すこしだけ、わかるようになる。だから、いまは言葉にしても、言葉に縛られなくないでいられる。わたしは言葉を超越している。そのことに気づいたから。

今日、仕事の勉強の話が出た。そして、こうおもった、「黙って受け取るのではなく、応えるべきだろう」、だけど、気負わなくていい。できないことはしない。できるならば、こんなに苦しくなりはしなかったのだから。できることをしよう。

できるならば、こんなに苦しくなりはしなかった。

人間は、変わったり、変わらなかったりする。
わたしも、人間のようなものだから、壊れたり、直らなかったりする。すこし持ち直したり、また壊れたりする。

たぶん、わたしは、自分でかんじたり、考えるよりも、取り返しのつかないものになってしまったのだろう。致命的なものが壊れてしまって(壊したのはわたしだろう)、それはもう2度ともとには戻らない。よく他人が、「会社はあなたの面倒を生涯見てくれるわけではない。だからいまいるだけの関わりしかない会社のために、自分を投げ出してはいけない。ゆだねてはいけない」と言う、その意味がわたしにはわからなかった。未来はなくて、いましかなくて、今日しかないのに、明日もあると言われて、心がつぶれそうだった
わたしのなかのどこかが、損なわれてしまった。リストカットと変わらない、わたしは自分に2度ともとに戻らない損傷を与えてしまったのだ。傷つくことをゆるしてしまった。それどころか、自ら、身体を投げ出した。なにかと比べて決めたことではない。そのひとつしか選択肢はなかった。
自分をあわれにおもうというよりは、だれかに謝りたい気持ちだ。こんなふうに、自分を損なってしまって、ごめんなさい。だれか、ごめんなさい。

これから先、生きていく時間の中で、わたしはわたしを見つめたい。損なわれてしまったわたしを、知りたい。
知ることは愛だから。

8月17日土曜日

夢を見る。精神科病棟に家族や親戚といる。わたしは姉をそばに置いて、患者と間違われないように、目を光らせる。個室の待合にいて、畳の上でお弁当を食べる。細長い2段弁当で、わたしは白いご飯をすべて食べていく。自分でも、「こんなにふつうのひとみたいに食べて平気かなあ」と戸惑っている。電気量販店の吹き抜けのある最上階にいる。わたしと母はトイレを探して、フロアの隅から隅へと移動していく。扉を見つけてワームホールをくぐるのだが、毎回トイレではないちがう場所へ出てしまう。いちどは、ベルリンへ出る。「いけない、ここベルリンだ! うしろへ下がれる?」と言って、わたしと母は通路をあとずさって、フロアに戻る。

今朝は早起きをしなかった。わたし自身も30分普段よりも眠って、それから目が覚めても身じろぎしないでいた。

わたしという存在の内側によろこびはなくなったのだろう。楽しむとか、よろこぶとか、そういう感覚を自分の中に存在を許し、持ちつづける、そんな力が失われてしまったのかもしれない。わたしはもう2度となにかを自分でして、よろこぶことはないのかもしれない。精神的に疲れたひとが、「これまで好きだったことをしても楽しくかんじない」と言うが、その状態がニュートラルになったのだろう。わたしには力がなくなった。

楽しめるようになるのではなく、楽しめないことに慣れたほうがいい。

金を稼いで母にほんのすこしだとしても楽をさせたい。

わたしは家族にひつようとされていない。義務のようなものとして置いてもらっているだけだ。家族と同じ時間を同じ場所でおだやかに過ごせることを求めてはいけない。
わたしは求めてはいけない。そのことをわからなくなってしまう。そばにいて、残虐ではない話がしたい。おいしいね、と言って食べて…

ひとりぽっちだ。我慢強くないから、聞き分けがよくないから、父の快感回路をふさぐから、消費するから、金を稼がないから、ひとりぽっちだ。わたしという存在は根本的に許されていない。許されてほしいと願うなどいったいなにさまなのか。家族はわたしを選んだわけではない。正常な子であればどんなによかっただろう。

身体がやすらげない。どこにもやすらげない。

おそろくわたしは従属しなければ生きていけないだろう。支配されなければ生きていられない。

昨日は、「服などを、着たいな」とおもった。

わたしはここで死ぬのだろう。

生存は許されていない。
金を稼ぐために生み出された。役目を果たすために作られた。
わたしの生存は許されていない。

金を稼いでいない。

ひとはなにをしてよろこぶのだろう。

好きだったこと。
・音楽を聴くこと
・絵を描くこと
・部屋を自分らしく飾ること
・服を着ること
・髪型
・靴を履くこと
・お菓子を作ること
・勉強をすること
・コーヒーを飲むこと
・文房具店に行くこと
・映画を見ること
・飼い猫と飼い犬
・母の日と父の日
ほぼ日手帳ガイドブックを読むこと
・空想

顔をあげられない。

金を稼げたらそれでいい。
金さえ稼ぐことができればここにいられる。
ここにいられるだけだけれど、ここにいられる。

ここ、いま、以上にはならない。金を稼いでも生活は変わらない。金を稼いでも家族に愛されるわけではない。話ができるわけではない。居場所はない。関係はない。ここは父のもの、母のもの。わたしは彼らのもの言わぬもの。それでいい。いま、ここ、それでいい、いま以上もここ以上もいらない。変わらなくていい。父がテレビを見て、英語をして、他人をこきおろしていい。母が父の話を聞いていい。わたしはいて、いなくていい。

すこし居すぎたのだろう。天気と帰省とお盆。居すぎた。身体も心も黴ている。

いまでも辛いから、いまよりも辛くなったら、耐えられないのではないか。いまよりも父がよく話し、母が父のものになり、わたしの存在は忘れられ、かえりみられなくなり、「あの子はわからない。勝手なことばかりしている。もう知らない」、捨てられる。
そのことに怯えている。そばにいなければ、すこしでも離れてしまったら、2度とここには戻ることを許されなくなるのではないか。
戻れなくても生きていけるか。

なんのために生きているのだろう。
わたしの快感のため?
なんて淋しいのだろう。

身体がじょうぶならよかった。なんでもできたのに。
精神がタフならよかった。どうにでも生きられたのに。
でもその人生にも、なんの意味があるだろう。

わたしは望まれたようには金を稼げなかった。
だから望まれたようには生きられなかった。
うんざりだ。

なにもかもにうんざりだ。

家族には絶対に捨てられたくない。

こんな人生、こんなわたしだけれど、ひとつだけ確実なよろこひがある。わたしが死んだら、父がよろこぶ、ということだ。
それだけが、わたしの希望なのかもしれない。

他人を殺す前にわたしが死ぬこと。

わたしは自分を信じていないし、他人もわたしを信じてはいない。なのになぜ動けるの。

1ミリでも動いたら見捨てられる。

遺棄される。

金を使わないことが父のよろこびだ。生活などはどうでもいい。テレビは見ない、勉強する時間がない、ネットなど使わない、ビールはもう何年も飲んでいない、と言って、見て、して、使い、飲んでいれば、言葉が優先されて、父はエリートや経済やばかどものばか騒ぎや、金のかかる家族に押し潰された僧侶になって、一切の出費をせず、一切の娯楽もなく、生きるよろこびもなく、ただひたすら金を稼がされ、金を使われる、被害者になる。

あきらめたらどうか。
生きることをあきらめるのだ。

・就職をあきらめる
・日中の仕事をあきらめる
・自立をあきらめる
・よろこびをあきらめる
・意味をあきらめる

・支配されること
・金を稼ぐこと
・稼いだ金を使わないこと
・ものを言わないこと
・目障りにならないこと
・食べないこと
・音を立てないこと

眠る。食べる。

なにかひとつがひっかかる。

自殺していなくなった、みたいに生きること。

感謝すること。
金を稼ぎ、稼いだ金を使わず、息を殺すこと。

自分を誤解していた。まるでなにかができるひとみたいに。

感謝すること。
わたしはここまで。

すべてを父の思い通りにしたらいいのだ。家の中に引きこもって、外に出ることでガソリン代を使ったりしないで、すべてを父の正義の通りにすればいい。そうしたからといって、父はなにもかんじないだろう、けれど、わたしの心は楽になる。

わたしは子どもなのに、子どもになりきれないでいる。だから、就職をすることや、自立して家族を支えることを、考えずにはいられない。

ひとつのわたしは、5秒しかいない。

だれも変化に耐えられなくなった。よくなるかも、わるくなるかも、しれないことに耐えられなくなった。ここでじっとして、なにも変わらなければ変わらないとおもっている。

疲れてしまった。

神さまに教えてもらいたい。
わたしはどう生きたらいいのか。
・自殺をする
・息を殺して、依存し支配される
・自分を自分で守りながら家族と暮らす
・自立をする

10年未来をわたしはどのようにやり直せばいいのか。
しっかりしたいとおもう。
しかし、その力がないとかんじる。
身体も心も重い。

疲れてしまった。
自分にも現実にもうんざりだ。
だれもが懸命に生きている。

わたしの努力が足りないのだろうか。
父の言う通りなのだろうか。
そうなのだろう。
わたしはいまから努力をすればよいのだろう。
ほかに道はないのだろう。

わたしは…

『アップルと月の光とテイラーの選択』を読みながら、ひとはなぜ生きるのか考える。この現実をなぜ生きるのか。
午後4時以降は理性を失うわたし、たのしみもよろこびも自分ひとりでは見いだせないわたし。この恐ろしい現実。たとえわたしが存在していなくてもそれでも恐ろしいおぞましい現実。
わたしはなぜ生きていくのだろう。
わたしは、他人を憎んでいた。心底だ。言葉では、「他人」と呼んでも、実際にはわたしの領域を侵犯するもの。わたしは他人であり、他人はわたしである。その恐ろしさ。たまらない悲しさ。わたしはわたしでいたかった。他人に犯されたくない。侵されたくない。
わたしは、愛したくて、生きているのだろう。ひとは、自分に向いていないことを信じたり、もっとうまくできることよりもできないことを手放せない。自分の中の強さよりも弱さに目がいく。自分をもっとも理解していないのは自分自身だ。脳は脳をわからない。
わたしは、他人と関係することに向いていない。そうであるからこそ、他人と関係することをあきらめられない。変わらずにはいられない。わたしはわたしをないがしろにはできない。ものみたいに扱えない。わたしはわたしを引っ張っていく。いまとはちがう場所で、できないことをできるまで、歩きつづける。
ひとりで生きてはいけない。ひとりでなければ生きてはいかれないわたしだからこそ、ひとりで生きる人生には、意味を見いだせない。不毛な場所で、聞こえない声で、形にならない言葉を、わたしは話しやめられない。
他人が怖い。みなわたしを殺すから。わたしは殺されたくないから。ましてや、わたしが殺してしまうことになったら?
家族が怖い。見捨てられてしまうから。見捨てられたくないから。ましてや、わたしが見捨ててしまうことになったら?
わたしは、たぶん、最後まで、最後の最後まで、今日とおなじように生きるだろう。考えて、動けず、動き、疲れ、理性と理性を失った時間を生きる。わたしが与える愛と、わたしに与えられる愛のことを、考えつづける。

8月16日金曜日

身体を細くするふくろうのように、通りかかったもの(わたし)を見て、穴の中に身体をめりこませていく。消えてなくなりはしないが、消えてなくなりたいとおもっているのか。名前を呼ぶと、動きが止まる。存在がやわらかくなる。
わたしはあなたを殺さない。
あなたもわたしを殺さない。

「努力した」とひとは言いたくなるけれど、「努力することを許された」ことにまずは感謝したい。

父さん、お金を稼いでくれてありがとう。母さん、家事をしてくれてありがとう。
朝ごはんがおいしくてうれしい。

就職に至らなくても、時間や職種を工夫して、お金を稼ぐ。

父は二分法だ。これはよい、これはわるい。父の法の下で、わたしも弟も、育った。
わたしたちがどのようにものを考えるのか、わたしたちはなにの領域にいるものなのか。そのことを捉えること。

あれだけの風が吹いて、家一軒、どころか屋根ひとつ飛ばされていない。大工さんすごい。設計士さんすごい。樹すごい。地面すごい。なんか、とにかくものすごい。

言葉にしたら大きすぎて、間違いみたいな気持ちがして、怖くなる

いまここ。

大火傷をおってただれた穴の空いた腕が映し出される。これからそれに関するニュースを放送する、という短い宣伝。ニュースがはじまる。経緯が語られる。少年の腕に火がつく映像が流れる。つぎに映し出された腕にはモザイクがかかってある。視聴者への配慮というわけだ。
連日、男が逃げ場のない男を殴る映像が繰り返し流れている。
父は大興奮して、けらけらと、それから鼻で笑い、「どいつもこいつも」と言う。話して話して話す。
日本中で、ものがよく売れ、胃腸がフル稼働していることだろう。台風の影響など、消し飛ぶ勢いで。

わたしがいなくなったとたん話すことをやめて、行動して、まるで話などしていなかった、そんな暇なかった、というような音がする
わたしを追い出している。無意識だから、淋しい。

この前、「自殺者がでたらあとまで言われつづけるからね」と他人が言った。ふしぎな気持ちがした。

父は目の前のこと、自分のこと、しか考えられない。いまこの瞬間に他者を従わせたい、いまこの瞬間にいなくなってほしい、いまこの瞬間に金を稼ぎ、いまこの瞬間に自殺してほしい。父は人間で、人間はパーセンテージの意思をもつ。わるいとか、モンスターとか、そんなわかりやすいものではない。わたしもだ。

夕食のあとは辛い気持ちになる。1日が終りそうで、ほっとして、やすらごうとする無防備な身体に、1日のうちでもっとも鋭いものが投げつけられる。

首を吊ること。
父は喜んでくれる。

今日は母が美容室に連れていってくれた。カット代も払ってくれる。帰り道、頭の中で考える。わたしは父を慕っていて、父もわたしを溺愛していた。父にとってわたしは、生まれてはじめて手に入れた、純真無垢な子どもだった。破綻した関係を言葉で見つめる。

わたしはモンスターではないということ。
人間は多様であること。
だから、人間をモンスターと呼ぶ人間も、わたしは許容したい。
わたしは人間を信じているということ。
人間の醜さも、無垢さも、変化も、強さも弱さも、信じているということ。
だから、わたしは殺されたくないし、殺したくもないが、殺されることも、殺すことも、人間のわたしに起こりうることであると、受け入れたい。

自殺すること。

人間の無意識が怖いこと。怖いことを手放せないこと。ないことにできないこと。わたしはなにひとつないことにできない。

父に愛されたいのは、古い恋人に執着しつづけるようで、笑ってしまいそうだ。

母の記憶。星の王子さまを、読み聞かせてくれたこと。絵本ではなくて、言葉だけ、声だけの物語は、わたしには難しすぎて、もどかしくて、けれどすこし誇らしくて、部屋の灯りの色まで覚えている。

父の記憶。あぐらをかいた上に座ることが好きだった。わたしは周りの少女よりも無垢で、よく話しをして、野山を駆け回り、たぬき寝入りをして、よく泣き、よく笑った。そんなわたしを父は愛した。それは父にとって生まれてはじめて、人間を愛することだったのではないか。
父もあの頃は、よく話しをして、よく笑った。

疲れている。夜は疲れている。
やすらぎかたがわからない。
やすらぎかたを身につけられなければ、どうにもならないのではないか。

美容室では深呼吸をした。ずっと、深呼吸をした。
帰りに見た鏡の中のわたしは、あたらしい髪型が意外にも似合っていて、ふしぎだった。はじめから、この髪型だった、みたいに。

1匹の猫が見あたらない。

「あの子ったら、『孫を生んであげたんだから』なんて言うから、叱ったの。いったい、ひとりの人間を育て上げるのに、いくらかかるとおもっているの、そのお金、だれに出してもらうとおもっているの。ありがとうございます、でしょ」

わたしは、彼女の言葉ではないとおもう。彼女が思いつき、口に出したのではない。周囲が先に言葉にしたものに沿って、彼女は生きたのではないか。「あの子はどうしようもない。でもまあ後継ぎを生んでくれただけでもね」そんなふうに、捨てられたのではないか
わが子を見捨ててはならない、とは言えない。いつまでも面倒を見て、最後まで愛して、受け入れて、支えてほしい、とは言えない。娘は言えない。
ふたりよりも、ひとりのほうが、安い。
それは言葉にされなかったとしても、生まれることを止められない、消えることもない、了解だったのではないか。

わたしは疲れた子どもで、早く眠りたくて、ぐずっている。

大人になるということは、家族と離別することではなくて、家族と適切な距離を持って、冷静に付き合えることだろう。わたしはそうなりたかった。なりたい。

言葉がもっとも淋しい。
言葉がもっとも切ない。
言葉がもっとも醜い。
言葉がもっともままならない。
人間はもうすこしタフだ。

「この街の踊りがくだらなく、隣街の踊りがすばらしい理由がわかった。この街の踊りは女子どものレベルの踊りでしかない。だから参加者も90パーセント女子どもだ。一方隣街の踊りは男の踊り、レベルの高い踊りだ。だから俺はこの街の踊りがくだらないこと、隣街の踊りがとてもとてもすばらしいことを、とっくに知っていたのだ。その理由がいまわかった」

自分が歯がゆい。もっと感謝してほしい。

わたしが多少とも冷静にものが考えられる(考えられるとして!)のは、午前7時から午後4時までなのかもしれない。

核兵器が用いられ、放射能まみれになって、内側からも外側からもただれて死ぬ。
地震が起こる。
交通事故。

わたしは死ぬかもしれない。

8月15日木曜日0

午前4時停電する。わたしは役に立ちたがってだめ。そのままに放っておけなくてだめ。父の声が聞こえたから、起きたのだとおもって、冷蔵庫を見に行く。「停電だから冷蔵庫はもうだめだ(おまえは引っ込んでいろ)」と父に言われる。ふぃ。

真夜中から暴風。屋根が飛んでいないはずない。

葉が揺れる音が近づいてくる。そしてわたしたちが揺れはじめる。大きな音が聞こえるたびに、「これでわたしたちもうオシマイ」とおもう。
恐怖と畏怖がまざりあう。

灯りがなくて本が読めない。

お盆でよかった。はぴはここにいるから、だいじょうぶ、よかった、ひとりぽっちじゃない、雨に濡れていない。

冷蔵庫腐って冷凍庫腐る日。

午前2時から目を覚ましては眠る、繰り返している。そんなにはしんどくはない。
音は怖いけれど、澄んでいる。人間の意思が介入しないものの、つよさ。

炎が揺れていた。わたしが朝食の皿を洗っているあいだ。ろうそくのうえで、炎は揺れて、わたしは目がくらくらとした。

雨戸をほんのすこしだけ開けて、外の光を取り込む。

「いっしょうけんめい生きた」「できることぜんぶした」

「なしとげませんでした」

生きて死んでいくってどんな気分だろう。

窓の外が見られないと落ち着かない。焦り、圧迫感…

腕を殴る殴る殴る殴る。医者の娘で自分も医者で脳の中に声が聞こえてもやもや病で何度も開頭手術を受けてそのたびに機能が低下していきいまでは卵の売り場がわからず一人息子か案内している。それからつぎは半身麻痺で鏡のボックスを作り右手を映して左手が動くようになった。
どこにも居場所がない。
父の言葉に父の姿勢に父の思考に全面的に同意しひれ伏しあがめ己の愚かさと浪費を悔い悔い悔い悔わねばらない。
父に付き従わなければ居られない。ここに居られない。

音楽は麻薬だ。映像は麻薬だ。
わたしはなにひとつ捉えのがしたくない。適当に感じたり、感じなかったふりをしたり、なにが起きているのか、起きていないのか、理由はあるのか、ないのか、どれほど複雑なのか、単純なのか、知りたい。かんじるすべてを取りのがさずにかんじたい。わからないすべてを見つづけたい。わたしは「あとで」とか「適当な具合に」とか「うわべだけ」とか「なんとなく」ということをしたくない、できない。わたしはかならず捉えつづけたい。やめたくない。それが、わたしが生きるということだろう。0