つよく生きているか

2019〜2020のくらむせかい,くらむの日記

8月1日木曜日

今朝もごみ捨ては父が5時半から行った。早起きして、奪い合っている。自分の役割を持つことは、他人の役割を奪うことだ。だから伝承は難しい。わたしはなにもできないものになるだろう。銀行も知らない、税金も知らない、福祉も知らない、そういうものに。ひとりで暮らす緊張も責任も知らない。家族のうちわたしだけが知らない。
逃げ出す準備をしようとしている夢を見た。準備が発覚することを恐れながら、逃げ出すことのも怯えながら、しかし、遅れることにも不安だった。夢の中では、もうひとりの人間と逃げようとしていたが、その人間が思い出せない。雨が降り、人間が腰まで濁った雨に浸かる。みなその場所にいる。移動しない。移動しようとしているのは、わたしと、もうひとりだけだった。

昨日、保険もつけてもらえると聞いて、びっくりして、喜ぶ。それから夜になり、見通しが曇る。どう考えて生きていいかわからなくなり、なにか、力がことんと失われたようだった。ひとも、猫も、ねずみもその1日に死んだ。多くのことが、起こりすぎている。

役割云々と考えることは基本的に間違いである。まるで潰されているように書いているが、反対だろう。ひとりでは立てないのである。わたしはやっていけないのだ。
わたしは食器を洗っている。この役割ひとつをがんばろう。
もっと感謝してほしい。家族に感謝してほしい。そのためには、自分がどれほど弱いものかを、自分で受け止めることがひつようだろう。
わたしは立派な人間ではない。人間でさえない。
そのことを思い違えないでほしい。

晴れている。
肩が凝っている。
よく考えたら、以前の状態に戻っただけなのかもしれない。そうおもえば、なにということはないのではないか。
いずれにせよ、生きることを望まないことだ。

現実はこんなふうに進んでいくのかな。

1時間読む予定の本が、10分で終ってしまう。物語が終ったから

幼馴染みが死んだショックが大きい。身体中にまとわりついている

こんなふうに、現実は進んで…

それでも、愛さねばなはない。生きる意味はほかにないのだから。愛は技術だという。修練がひつようなのだと。
他人ではなく、自分を…
自分が自分を守らねばならない。律して、横たえ、励まし、いましめ、目を開かせて。

夢となにがちがう。
夢の中では、わたしはもうすこし動いている。意思をもち、対処しようとしている。現実のわたしはどうか。破損してばかりだ。

現実は排除する。排除されなかったものが残る。残ったものが…

口のたつものが…

夏もすこししんどいのかもしれない。

ほかにはなにもいらないほど最愛の家族に望まれた死をまのあたりにして、身動きがとれない。

はぴに会いたい。

愛は行動だ。

母に、「アマゾンで本を買ってもいいか」と訊いて、ようやく、本は買わないことに決める。母は、「いいよ」と言ったが、本を買うような身分ではないということが附に落ちた。毎回そうなのだ。それまでさんざん考えて、計算をしたり、リストを何度も作り直して、そして訊いて、断念する気持ちになる。けれど、悲しいかんじではない。むしろ、背伸びしない清々しさがある。
わたしは身の丈にあった生き方をしたらよいのだ。

メモは捨てようかともおもうが、置いておこうかともおもう。

昨日、幼馴染みの話を聞いて、身の回りの整理をよくしていたそうだ。わたしも、自分がわかればよいというのではなく、だれであれ、急死することはあるのだから、他人にもわかるようにしておくべきだった。ファイルに、インデックスをつけた。

なにかをしない代わりに、ほかのことをするのではなく、どちらもしないでいたい。欲張らないことだ。わたしにできることは、ほんのすこししかないこと、できることすらも、ようようこなせることを、わたし自身が忘れないようにしたい。

できることはすこししかない。

生きるために生きた。

たぶん、わたしは、あまりよくない。
あまりよい状態ではない。

苦しみから解離するには、膨大なエネルギーがひつようだ。張り詰めていなければならない。ほんのすこしでも気づいてしまうと、身体は叫ぶ。
恐れずに、身体をかんじなければ、どうしたって克服できない。
それでも恐れている。
解離した反動で、タイムトラベルを違反したひとのように、身体が引き裂かれても、それでも。

急いて生きることをやめたい。
わたしには耐えられない速度だ。

わたしはここまでだ。

自分のまちがった考えに耐えられなくなりそうなときがある。いまもそうだ。もっと感謝をしてほしい。まちがえて考えないでほしい

わたしは頭がよくない。

責任にも、複雑さにも、耐えられない気がする。